原田 馨先生を偲んで

京都大学化学研究所・生体触媒化学研究フェロー
(元・田辺製薬株式会社 取締役常務執行役員,元・財団法人日本医薬品情報センター相談役)
松本 和男

   筑波大学名誉教授の原田馨先生は2010年11月20日に他界された.享年83歳であった.
     原田馨先生は,1927年に大阪でお生まれになられ,元・田辺製薬(株)の研究・技術・生産部門の最高責任者(支配人:専務取締役相当)であられたご尊父の影響を受け,化学の道を進まれた.1952年大阪大学理学部化学科をご卒業後,大学院へ進まれ,赤堀四郎先生,槌田龍太郎先生,小竹無二雄先生,金子武夫先生らの指導を受けられた.それが契機になり,1956年に渡米され,フロリダ州立大学では,Research AssociateとしてSidney Fox教授に師事された.1964年にFox教授とマイアミ大学へ移られ,分子進化研究所の主任研究員,研究教授として活躍され,生命の起源,化学進化,分子進化などに関して,数多くの研究実績をあげられた.その後,同大学の化学科教授も併任された.
   この米国時代,化学進化の研究の一環としてのアミノ酸の加熱重縮合による“プロテノイドおよびプロテノイドミクロスフェア”の提唱は,一世を風靡した.関連して,アミノ酸の光学分割,アミノ酸の不斉合成の研究も世界に先駆け取り組まれ,多くの成果をあげられ,この分野でも第一人者となられた.
   1969~1972年当時,米国ではアポロ計画(アポロ11~17号)で,宇宙船により人類が月に到着し,月の石を地球に持ち帰った.原田馨先生は,その分析研究などの分担研究者に選ばれた.先生の卓越した洞察力に加え,天性の器用さも発揮され,月の石に含まれるアミノ酸分析では世界でもっとも正確なデータを出された.後年になり,それが高く国際的に評価された.この業績と上記の研究実績と合わせて,1996年にフランスで開かれたISSOL(The International Society for the Study of the Origin of Life)の学会で,日本人初のISSOL Fellowに選ばれたことは特筆すべき功績であった.
   筑波大学の創設に伴い,1974年に筑波大学化学系教授に迎えられ,1991年の停年まで,筑波大学でも生物有機化学,化学進化,立体化学(光学分割,不斉合成),プラズマ化学のご研究と教育にご尽力された.これらの学術研究論文は340編,著書は20冊を越すものであった.
   1991年に筑波大学名誉教授になられた後は,宝塚市に住居を移され,神戸松蔭女子学院大学教授として教育にもご尽力されながら,中世・近世の西洋文化史の研究にも注力された.
   このように,原田馨先生は科学者として多くの業績をあげられた傍ら,思想・文学・歴史などの人文系のさまざまな領域にも精通した並はずれた学者でもあった.特にドイツ科学史には造詣が深く,門下生は化学(科学)と共に教養面でも多くのことを教わることができた.
   全ての公職を退かれた後は,特にドイツの科学史についての執筆活動に専念された.現役時代(米国在住時から帰国後)から通算20回以上もドイツを訪問し,ドイツ人以上にドイツの歴史上著名な科学者のお墓や銅像などを含め何千枚もの写真を撮られ,それらと共にドイツ科学史を(社)近畿化学協会誌,関東化学(株)ケミカルタイムズ誌などに長年にわたって連載された.科学史だけでも100編を越すと思われる.傘寿を迎えられた時点から,それらの集大成として,一般読者にも役立つ読み物との思いで「ドイツ科学史巡礼の旅」(一二三書房)の著作に取り組まれた.その第1編のベルリン編は2009年に出版され,好評であった.続く,第2,3編がまもなく完成に近づき,病床で最後の最後までその校正作業に取り組んでおられた.
   筆者はマイアミで1965~67年にお世話になって以来,45年強にわたり研究と人生の歩み方をご指導いただいた.魚釣,テニスなどを通しても,原田馨先生は何ごとにも集中し,果敢にチャレンジすることにより,道が拓けることを教えて下さった.亡くなられてから,原田先生は大学教授としての矜持をもち,さらに誠心誠意,門下生の研究指導と教育にとり組んでこられた稀に見る真の大先生であったことを改めて認識した.それだけに,先生のご逝去は私共門下生にとっては,深い悲しみである.数々のご指導とご鞭撻に改めて感謝申上げると共にご冥福をお祈りしたい.

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