HOW DID COGNITION ADVANCED TOWARD ACTIVE AND LOGICAL GRASP OF OBJECTS? - AROUND INTRANSITIVE/TRANSITIVE AND PERFECT -

Takashi Ito

The society for Philosophy of Art in Kansai
200 Ookubo, Ookubo-cho, Akashi-shi, Hyogo 674-0051, Japan.
tel&fax078-935-7327 e-mail : m iak ve r ko @ ki h .b i g l o b e. n e .j p
(Received July 31, 2007; Accepted November 7, 2007)

(Abstract)

   This paper examines the complication process of verbs compared with materials in natural languages. And the process from vague cognition to logical definite one is discussed as well. First, emergence order of intransitive and transitive is deduced. Ergative phenomenon is to be noted so as to refer to the branching off of transitive verb from intransitive. New quality, transitive, came to existence; “the emergence of transitive” must have had reflex relation with “objectification of the circumstance and self-objectification.” Secondly, relation between perfect aspect and past tense is also discussed. Perfect aspect implies abstractness in itself, however, it seems to have been in use from early stage. Later, grammatical structure around “time” was built up chiefly based on “tense” system. Present and past tense had not emerged before people gained abstract and relational cognition. It is present tense that gives abstract and trans-temporal meaning to sentences.

(Keywords)

intransitive and transitive verbs, ergative phenomenon, perfect aspect, objectification of the circumstance, self -objectification, present and past tense

認識はどのように能動的かつ論理的対象把握に向かったか ‐自・他動詞および完了をめぐって‐

伊藤 敬

関西芸術学研究会
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1.はじめに

   <言語の今日の姿>と<言語が形成されてきた過程の姿>とは異なる.
チョムスキーの生成文法とりわけ普遍文法の研究は,世界の諸言語がもつ共通の基体と実体の解明であり,諸言語についての現段階の研究である[1].その一環として,個体発生的言語獲得が吟味され[2],言語能力の生得性の根拠の一つが導き出されている.これらの研究から言えることは,生成文法は,人類の,種としての系統発生的な言語獲得の歴史の考察へと展開すべき内容と潜在的論理必然性を含んでいるということである[3,4].この際留意すべきは,言語においても最初から現在の姿が目指されたわけではなく現在の姿は紆余曲折を経て、その結果として形成されたという点であろう.
   シンポジウムのテーマは<新しい質の成立の経緯>であった.本稿で取り上げる<新しい質の成立>は,言語生成史での<未分化な語から重層化へ>,<直接的具体的な事象の表示から抽象的論理的事象の関係的把握へ>の言語の質の変化である.
   ここでは<言語の出現そのもの>ではなくて<出現した言語が如何に現代の言語に到ったか>という言語史の或る段階に焦点を当てる.この際,言語生成を探る手がかりとして現代諸語の文法を素材とする.とりわけ動詞における自・他の区別や完了相,時制などが,言葉の文法化に果たした役割およびその意味ついて考察する.
   これは同時に意識/認識の問題でもある.本稿での<生まれたばかりの言語が言語らしくなっていく過程>の検討は<意識/認識の形成を探る>という問題に連なっている.<言語の複雑化・階層的文法形式の成立>と,<意識/認識が,如何にして漠然としたものから明確な論理的認識・思考へと深化の過程をたどったのか>とは反映関係にあろう.当該する時代の生活のあり方が言語の使用法に影響し,その結果変化した言語のあり方が逆に意識/認識のあり方に枠組みを与えたはずである.言語との関連で意識/認識を問題にする場合,それは当然社会的意識である.
   さて,本稿では動詞を中心に検討する.動詞は言語においていかなる位置をもつであろうか.文の骨組みは<主語(または主題)+述語> によって構成される,と現在広く考えられており,現代ではそれは当然のことである.しかし,この<主語(または主題)+述語>の枠組みが言語史の初めから確立していたのだろうか.この枠組みは,ごく現代的現象である、とだけここでは述べておく.(現代におけるこの枠組みの論議,たとえば現代日本語における<は>と<が>をめぐる<主語か主題か>の論議など[5,6]については本稿では詳述しない.)
   泉井久之助によればサンスクリット文法学者Paniniは<文の中枢的成分は動詞である>としていたとされる[7].Meillet(1937)によれば<文の本質的かつ恒常的な構成素は動詞だけである>とされる.ヨーロッパではアリストテレス論理学に主語・述語概念があったにもかかわらず,主語が文法学に取り上げられたのは12世紀であり,本格的に導入されたのは17世紀以降である.ギリシャ文法学史上独自の地位を占めるストア派ですら<文は動詞だけで十分に成り立ちうる>とするギリシャ文法の範囲を出なかった.もっともここで動詞と呼ばれるものが今日われわれの言う動詞と全く同じものとは言えない点はお断りしておかねばならない.文の中核をなす動詞は<述語の機能>を担うものとされた.(また,アラビア語では語彙の90%が動詞由来とされ,他方,動詞を含む文は動詞から始まる.きわめて示唆的である.) 上述のように,現代的な枠組みが明示的に成立したのは,それほど古くからの事ではなく,過去に遡ればさかのぼるほど,会話の関与者にはコンテキストから会話の主題は自明であり,相手に伝えたいのは述部であったと思われる.素朴な会話の主たる伝達内容は述部にこそあろう.
   以上,事象が示される文中で動詞は重要な地位をしめることを,確認しておきたい.

1.対象世界の受動的把握と自動詞

1.1.語形成 ‐自動詞から他動詞へ
    ヒンディー語には,<自動詞に‐a‐を挿入することによって他動詞を形成する>という規則がある.


   文例2ではdikhna(見える)からdikhana(みせる)への変化が示されている.
   自動詞と他動詞を比べると,自動詞の方がより単純で他動詞の方が複雑になっている.<単純な語が単純な概念に対応し,より複雑な語が複雑な概念に対応する>という法則に照らせば,自動詞のほうが他動詞よりも概念が単純であるといえる.ただし原基的で単純な他動詞も例外的に存在する。
    このような法則の背後には語形成の歴史が暗黙裡に前提されているであろう.より単純な語が先に形成されて,後に単純なものの複雑化が起こったと捉えるのはきわめて自然な見方である.つまり,ヒンディー語を見る限りでは語構成のこの規則性が示しているものは,おおまかには<自動詞がまず成立し,その後に他動詞が成立した>ということである.
    ところが実際の形成時に初めから自動詞と他動詞の区別があったはずはない.当然,そこには未だ事態を構成する諸要素の分析や関係性の認識は明確ではなかったと見るべきである.要素の抽出やそれらの関係(最も単純な関係は二者関係)に対する意識化が低いのだから明確な他動詞は現れようがなく,能動と受動の区別も無かろう.むしろ漠然と事象全体を捉え表す未分化な動詞が成立したと考えられる.こうして最初に形成された動詞は多分に自動詞的な性質を帯びたものであることが分かる.ただし,原基的他動詞について触れたように、他動詞的な要素がまったくなかったわけではない.やがて他動詞になるべきものがまだ自動詞的にあったと見ておく.いずれにしても多分に自動詞的な未分化な動詞=広義の自動詞の先行的形成とみなせるのではないか. ただし今日の自動詞と比べると,ここでいう自動詞は<そこにある現状>をそのまま漠然と捉える所与性が強い.この時点では認識主体たる自己は自覚されていない.この<自己の意識化>は遅れるが,それは<対象の意識化>を前提としているがゆえに<対象の意識化>がようやく進む程度にしか進まないからである[8].
    このことは意識の面から捉えるとどうなるか.意識の変化の歴史を考えるならば,<漠然とした意識は,在るもの(捉えたもの)の状態をそのまま受け入れる>という性質が色濃いということである.それはとりもなおさず対象を描写する自動詞的意識であり<自動詞的意識が他動詞的意識に先行した>という意味になる.すなわち人々の認識は<対象世界の姿を先ずそのまま認識する>(<・・・がどう見える>ということ)というところから始まった,と捉えたい.

1.2.自発動詞
   前節(1.1)では,<後に他動詞が分岐することになる,対象描写としての自動詞>を主として問題にした.次に認識主体自身を捉える自動詞的表現を考えてみたい.印欧語族中のインド諸語およびロシア語では<話者自身にかかわる事象>でありながら<話者の意思で左右できない事象を表す動詞>を<行為者の意思で対象に働きかける表現>から区別する表現法が存在する.(2)


   印欧語インド語族の場合は,空腹,喉の渇き,疲れ,食傷,眠気,恐れ,いとおしさ,愛,恥,恥ずかしさ,驚き,喜び,愉快,尿意,などがこのようないわば<自発>表現形態をとる.ロシア語の場合も同様に<状態,感情を表す場合>,がこの形式(自発表現)で表現される.(加えて,時間がかかる,お金がかかる,など,<状況が与える個人に対する拘束>などもこの形式で表現される.)



   日本古語に助動詞<る><らる>がある.基本的な意味は,<人間の作為が加わらずに或る動作が自然に発生する>ことを示す.自然発生の意味から発して<自然と或る動作を行うことができるようになる>という意味を表す可能の用法,<成り行きとして自然とそういう事態となった>受身の用法も含むようになる[9].後に主として平安末期・鎌倉時代以降,<自分が関係していない相手の動作が自然にそうなった>,とか<なれなれしい関係でない>という意味で尊敬の用法が加わる.このように,後の分化はあるが元来は自発を示す助動詞(動詞の接尾辞)であったことを確認しておきたい.すなわち,日本古語助動詞<る><らる>の例は自発表現の歴史的先行性の一つの例証たりうる[9].



   驚きの表現について,文例12を文例11と比較してみる.文例12では受動態によって処理されている.自己が他動詞文の目的語の位置に置かれ,<自己が何者かに驚かされる>という、能動的関係の転倒としての受動態の構図である。主体的な自己が対象によって<驚かされる>と捉えられ、自己と対象が対立的に把握されている.
    これに対してネパール語では驚きは漠然と沸き起こってきた驚きである.


   また文例13から文例15について二三述べる.    第一に,文例14の能動的行為に比べると文例13では<純粋に自発的な現象が自己にはどうしようもない現象として生起してしまう>という受動的姿勢がそこにある. 自己の対象化はこのロシア文には現れてはいない.第二は,本稿のテーマとは離れるが必要な範囲で少し述べると,英語の場合,主語の<食べたがっているわたし>は主格で表されている.ところがロシア語では<わたし>は与格で表されている.ロシア語の場合,文章上の主語は<食べること>であり,<わたしに食べることが欲せられてくる>という構造になっている.このようなロシア語などの自発文における主語<わたしに>などは与格主語と呼ばれている(文例6,7のヒンディー語にも該当する).文法上,現代英語のような主体的な自己意識の確立は未だ達成されていない. また,日本語の<わたしは>の格については議論の余地がある(私見では英語よりインド諸語に近い).
    もちろんこれらのインド諸語やロシア語は,言語として能動的表現もすでに具えている.自発の表現と与格主語は対をなして現れている.この問題に関連してもう少し考えてみよう.

1.3.<有る>と<もつ>との関係
   与格主語またはそれに関連した現象として以下がある.



   ロシア語では年齢は自らの意思にかかわらない事象として与格主語で表される.
   アラビア語では<あなたには兄弟がいる>は<あなたの下に兄弟>と表現する.<私はペンをもっている>は,<私とともにペン>と言うだけである.<ペン>や<兄弟>は,<私>や<あなた>などの人に関係を表す前置詞をそえて表されるだけである.これらにおいては<もつ>はおろか<有る>すら用いない.
    このことは<兄弟が有る><兄弟をもつ>の<有る>や<もつ>は遅れて出現したことを示している.<有る>自体がすでに抽象性を含んでいるのである.今日,<有る>という動詞自体が汎用的・抽象的把握なのである.<もつ><有る>とならんで繋辞<です>も用いられ,かつこの場合の繋辞<です>に<有る>と同じ語が当てられる言語も少なくない.(後述ペルシャ語の段参照)
    以上の前提の下に<有る(いる)>と<もつ>について検討してみよう.


   <有る>という動詞はきわめて特徴的な存在である.<私には子どもがいる>,<私はピアノをもっている> という語を表すのに英語のように<もつhave>を使う言語と<有る>とを用いる言語がある.
    ネパール語などインド諸語では<有る>しか用いない.多くのアジア言語では子どもや兄弟のみならずお金や財産まで<もつ>ではなく<有る>と捉える.この言語の対象認識は,<対象に対して意識的能動的な姿勢で対している>というよりも,<そこに与えられている現状のあり方>として捉えられていると見なせる.<自己の意識的働きかけ>というよりも,<話者の意図を離れてそこにあるもの>,あるいは<話者の意思ではどうにもできないもの>と捉えられる段階であろう.
       他方,中国語では<有>が用いられる.これは,<もっている>というよりも,概念としてはほとんど<有る>である.これらに対して英語では<もつ>と<ある>の両方の表現がある.


   文例25では<1週間は7日です>という意味の場合に,<7日をもつ>と表現している.英語の<もつ>は日本語では<です>になる.
    この<もつ>と<です>の両方の表現をもつのがペルシャ語の年齢表現である.
   <私は30歳をもつ><私は30歳です>の2通りの表現,つまりペルシャ語も英語などと同様<対象に能動的に働きかけようとする表現>と<現状叙述的表現>との両方をもっている.
   抽象的な<ある>が所与の受動を表す自動詞であったために能動的対象把握である他動詞<もつ>へと発展する必然性があったのであろう。
   <有る>と<もつ>を,すでに述べた<与格主語>,<自発表現>と比べると,以下が言える.
    与格主語は<有る>型言語で多くみられ,これは自発の特別表現である.<もつ>型言語では主格主語を伴い,感情表現を受動態で表すことも少なくない(文例12に記述).
    <自己の家族関係たとえば母や,年齢という所与の対象>にまで,<もつ>という意識的・能動的契機の含まれた捉え方をする社会の意識状態は,その社会の人々の生活意識が能動的かつ意識的である(自己の意識が明晰にある)ことを示している.すでに述べたように自動詞が他動詞より歴史的に先行したと考えるならば,インド語族やロシア語には古い言語の姿が今なお色濃く残っており,英語やペルシャ語には比較的新しい言語の姿がより強く現れていると捉えられる.このような点を考えると,<もつ>を使う言語はより新しい言語形態であり,<有る>を使う言語は古い姿をとどめているといえる.<有る>と<もつ>は言語の歴史的段階の一つの指標たりうる.
    上に述べてきたように,人々の認識は<世界の姿を所与のものとして受け止め対象を描写する自動詞的認識>から,<対象に対して働きかける能動的な他動詞的対象化(自己と対象の二者の区別)>へと歴史的過程を経たとみなしうる.この変遷を私は対象把握の深まりと捉えたい.

2.能格現象

2.1.自動詞・他動詞と能格 
ここで,今日では,もはやごくわずかな個別民族言語にしか残っていない言語現象として能格現象を取り上げてみたい.


   上記のバスク文についていえば,<父は息子を愛している>と<息子は父に愛されている>とはどちらも同じ文で表される.<○○が愛する>と<○○によって愛される>の区別は,言語表現上は存在しない.文例30は文例29の単なる倒置に過ぎない.バスク語では能動態と受動態の区別はない.
    現在ほとんどの言語において能動・受動が明白に区別されるなかで,バスク語などその区別のない言語が現存しているのである.この状況を,圧倒的多数言語が今日の言語形態を示しているのに対して,ごく少数の言語が<過去の言語の形態を今日に残している状況>と見たい.つまり能格現象は,能動・受動の区別のない言語段階があったことの証拠でもある.そして今日なお現存しているという事実は,<能動‐受動><する‐される>の分岐が比較的遅く現れたことを示すものと見なしたい.
    純粋な自動詞文に比べると,<能格文は二者関係を表している>という意味では他動詞形態であっても,まだ,自動詞的性格を色濃く残しているとみなすことができる.1.1.で他動詞でありながらまだ自動詞的性格を脱しきれない段階の他動詞に触れたが,能格文の他動詞はまさにそのような他動詞である.他動詞文になりきれない能格文の<目的語>は行為の対象としては明確には自覚されないし,かといって受動的に何かをされる受身の意識も明確ではない.他動詞文が成立している場合は<能動的な行為者が対象に対して或る行為を行う>という意識,つまり自己の意識が明確にある(対象と自己の対立的区別).これに比べると能格で表される行為者は,<能動態の行為者のような明確な能動性の認識>がまだなく,単に<行為を行うものという認識>がかろうじてあるほどの存在である.自己の意識に映っている二者の関係において<能動的な行為者>と<その行為を受ける対象>という意識はまだない.すなわち認識主体である自己の主体性は十分確立していない.

2.2.長期にわたる能格現象による言語支配
   <未分化な段階が長く続いた>ということは,手話と能格との関係の観察事例からも裏付けられている.手話は日本語や英語と同じように自然言語の一つであり,言語学的に見て音声言語と同等の機能を備えているとみなされている.これはアメリカ手話の研究によって実証されている[10].
   ところで以下のことが知られている.健聴者の両親をもつ,手話に接したことのない先天聾の幼児(3,4歳児)のゼスチャーに自然言語の特徴が見られる.このこと自体,言語能力の生得性の証拠としうる.ただし,ここではその自然言語的特徴の出現については問題としない.この幼児のサインランゲージにおいて,<自動詞主語と他動詞目的語を同じ格とみなして他動詞主語と区別する>という特徴が見られることに注目したい[11].あきらかに能格現象といえる.ところが,この聾児の能格発話は,周囲の言語環境としては能格現象が見いだされない米国,台湾での事例である.(上述したように現存する言語で能格現象が見られるのは豪州原住民語やバスク語などほんの一部の言語に限られている.)この聾児の事例から,<能格をもつゼスチャーは母語や文化に関係なく生得的である>と結論されたという.
    ただし,上記の聾幼児における現象が,視覚言語特有の構造ゆえではないかとの疑問が呈されるかもしれない.だがその疑問は以下に述べるように根拠がないと見るべきである.
    人類史における言語経験は本質的には音声言語としての長期にわたる歴史的経験であった.だとすれば人類の脳生理的構造も音声言語使用者の構造として特化されているであろうと推定される.聾唖者の場合音声言語の代償として視覚言語が表れると見るならば能格現象という音声言語の歴史的段階が視覚言語に生得的に現れても特異ではなく,むしろ普遍的である.
    仮に手話が視覚言語ゆえに<他動詞表現への言語発達が一定の困難を伴う>と見た場合でも,同じことである.なぜなら音声言語でも<自動詞・他動詞の分化>という高度の抽象化を獲得するには長期の過程を要したとみなすのがごく自然だからである.
    こうして能格は生得的であるとしうる.期間の長さは特定できないが言語使用の長期にわたる反復がなければ生得性たりえない.わたしは能格の生得性からの当然の帰結として,<能格現象が古来長期にわたり文法を支配してきた>という命題を抽出できると考える.

2.3.能格現象の崩壊過程
    ところでネパール語,ヒンディー語など印欧語インド語族においては,自動詞と他動詞の分岐がすでに起こっているにもかかわらず,完了時相においてはなお能格現象が見られる.言語としては能動態と受動態の区別をすでにもっているが,実際の場面では受動態はほとんど使われない.これらの諸語の能格現象を以下にあげる.



   ヒンディー語は動詞に男性,女性の区別をもつ.
    文例31<ラムが映画を見た>では,主語のラムは男性であるにもかかわらず,<見た>という動詞は語尾/I/をとり,女性形になっている.文中の女性名詞は,<映画>つまり目的語である.同様に,文例32<シータは山を見た>では,主語のシータは女性であるにもかかわらず,<見た>は語尾/A/をとり男性形である.男性名詞は<山>でこれも目的語である.
    ここから明らかなことは,他動詞文の動詞の性を支配しているのが主語ではなくて目的語であるということである.ここからヒンディー語は能格現象を今日に残しており,能格の歴史的崩壊過程にあるとみなすことができる.
    ところで,バスク語などでは能格現象はすべての<他動詞(的)>文に現れるが,インド語族の場合,完了のみにそれがあらわれて非完了には現れない.インド諸語の能格現象は完了に限定されるのである.(ネパール語では,<能格が過去形と一部の現在形に現れる>,という捉え方もされているが,このことは後述する.) なぜ完了時相だけに能格現象が現れていて非完了には現れないのであろうか.私にとってはこのことは大きな謎であり,かつ,そこにヒントがあると思う.
    ここでネパール語を検討してみよう.




   文例33は他動詞文であるために主語<彼は>に能格指標/le/がついている.ところが文例34では他動詞文にもかかわらず主語<彼は>は無標である.この二つの文の違いは,文例33が過去形であるが文例34が現在形であることにある.実際,他動詞・過去文の主語にはすべて能格指標がつく.では次の例はどうか.
(35) Kamala-le mukh duncha. (Nepalese) Kamala face washes.  (他動詞,現在文)
    文例35は現在形であるにもかかわらず,主語に能格指標 /le/ がついている.この言語現象に関して,ネパール語では以下のように説明されてきている.
    <能格指標/le/は,他動詞文のうち過去形と,現在形のうち<目前で具体的に生起する事象の描写>または<強調文>とに付される>,と. <能格表現が歴史的に古い段階の文法を支配してきた>という見方に立てば,ネパール語において,<すでに明確に起こった過去の事象>と,<目前で明確に生起している事象>とは,<誰の目にも明らかな直接性と具体性を帯びた事象>,と捉えることができる.それらは決して事象を一般化して抽象的に表現するものではない.このような<直接的かつ具体的事象>の言語表現は古くから存在したとみなしたい.つまりネパール語の能格に関する私の結論は,<完了時相は非完了よりもより原基的である>である.
    この主張は一見困難に見える.なぜなら完了といえばすでに非完了が前提されているのだから,両者は同時でなければならない,と考えられてもいいからである.確かに,<非完了でないという意味での完了>は非完了と同時でなければ出現できない.ところが言語の出現を想定する場合,上に述べたような,すでに明確に起こった事象は誰の目にも明らかで,即自的発話に上りやすいと考えられる.わたしの結論でいう完了の原基性とは,<非完了と相補的にある完了>という確立した完了を意味するのではなく,無自覚的な完了である.
    なおネパール語で文法的に過去(時制)と捉えられている例の実態は,私見では完了である.少なくとも長らく<完了>であったものを,英語文法などの影響でネパール語研究者が<過去>と捉えたもの,と理解したい.
    インド語族に残されている能格現象は<本来の能格現象とはすでに言語的機能が異なっている>という見方も可能である.つまりすでに,自・他動詞の区別があり,かつ,実際には使用頻度が低いとしても受動態の表現もある段階に達している,という段階である.この段階ではバスク語などのような能格現象を残す必要性はないとも見なしうる.だとすれば能格指標は既にその役割を終えているにもかかわらず,なおも存在意義が認められていると捉えなければならない.ここにおいてインド諸語では<完了相にのみ能格現象が見られる>というインド諸語独特の能格現象のあり方が説明されなければならない.物事がすでに完了してその結果が出ている段階では,結果においてはその動作主のもつ意味は後退して<結果として残る目的語がクローズアップされるから目的語に焦点が当てられる>というのがその説明である.

3.完了相の過去時制に対する先行性 


   完了の原基性についてもう少し議論を深めてみよう. 3.1.完了支配の言語例
   そもそも印欧祖語の動詞組織は時制よりも時相の区別に重点を置いていた.ヒンディー語は時制と時相の両方をもつが,支配的なのは時制ではなくて時相(完了・非完了)であるとされている.印欧語の古い姿が残っていると見るべきであろう.現代語の中でもタガログ語動詞は時相に基いており,中国語も時相言語とみなせる. また後述の様に,日本語も本質的に時相言語であると見なせる.
3.1.1. 中国語


   文例37<彼は突然発病した>は通常の完了文であるが,文例38<私はまもなく行きます>は未来に関して,完了の/了/ が用いられており,中国語普通話が時制言語ではなく時相言語であることを示している.ここで時相言語であるというのは<時制ではなく時相が時を支配している>という意味なのであるが,時相が時制に代用されることがまったくないという意味ではない.時相と時制の分岐がいまだ確立しておらず両者が未分化であるという意味である.

3.1.2. 現代日本語助動詞<た>
日本語文法大辞典によれば,過去を表すとされる<た>についてみると次のように分類されている[12].


   ここからは二つのことが指摘できる.現代日本語の時は過去・非過去と分類されている.
    第一は,現代日本語でも,/た/は完了として大きく捉えることが重要である,ということである.今日,日本において学校文法でも上記のように分類されているのであるが,たとえ細分的把握が必要だとしても,その大前提として,これら全体を大きく完了と捉えておくことが欠かせないのではなかろうか.日本語も基本的には時制よりも時相に基づくとみなすべきである.梶原秀夫も日本語について<過去は完了の下位区分であるとする方が実情にあっている>と述べている[13].
    第二は,日本古語で過去の助動詞とされているものも事実としては過去時制ではなかった(3.2.3.).
    日本古語の完了は,推量,詠嘆などの法的性格の強い助詞の中に完了が位置を占める.この完了は,経験に成功の喜び,失敗や後悔などの感情などが伴うという,法としての完了である.完了の性質として,法が完了時相よりも歴史的に先行したと考える.
    先に,<時制は高度に抽象的である>と書いたが,今日的意味での時相は時制ほどではないにしても,もはややはり抽象的である.

3.1.3.ネパール語
   先に,<過去とみなされている>と述べたネパール語について検討する.ネパール語では動詞<行く>は現在形と過去形で全く異なった形をとる.これは多くの印欧語においても同様である.これを手がかりに検討する.
<行く(現在形)>はjAnu、<行った(過去形)>は gaenである。


     文例44では,カトマンズにはまだ行っていないのだから,ここで用いられている<gae>は過去形ではない.また,仮定法のような現在の事実と反対の仮定をしているわけでもない.従って,これは明らかに完了である.同様の例はチベット語でも確認できる(省略する).
    認識の深まりの歴史的過程を考察するならば,ものごとを過去・非過去と区分するよりも完了・非完了(存続)と区分する方がより直接的であり具体的である.現在および過去という分類はより高度な抽象性を帯びているとみなせる.今日において過去と非過去の二分法を取る言語はどれも本質的には完了・非完了で,つまりそれから転じたものとみなしうるのではなかろうか.(古英語では未来形はなく,過去と現在を軸に構成されていた.この過去も,完了と捉えられるであろう.)

3.2.法・相・時制と完了形の位置

3.2.1.ペルシャ語
   ペルシャ語では過去形の語幹を基準にして命令形が作られる.命令形には命令形指標/bo-/ がつく.命令形から/bo-/をとり,現在指標/mi-/をつけると現在形になる(Table 1).    印欧語をみれば,圧倒的に<現在形を基準にして過去形を作る>という現在形-過去形関係がある.<現在形を基準にして過去形を作る>という発想が,現段階の到達点としての時制の捉え方であるということができよう.そのような中にあって,なぜペルシャ語では過去形が基本なのであろうか.本稿は過去時制とみなされているものの中には完了時相の転じたものであるという見方をとる.だとすると,ペルシャ語は実は<完了を基準として非完了を作る>という,語形成における転換形態ではないかということになる.<少数の存在物の中には過去の歴史的な姿を示すものがある>という命題が成り立つとすれば,ペルシャ語はまさにその実例と言えはしまいか.

Table 1. Past and present forms of Persian verbs.

Past form is basic. Affix "bo-" attached to "the root of past" makes imperative. Affix "mi-" attached to the root of imperative makes present. Affix"-am "attached to past and present root indicates first person

3.2.2.アラビア語
   印欧語族の一つであるペルシャ語にはセム語族のアラビア語の影響大であった.はたしてアラビア語は完了形が原基形態である.三人称・男性・完了形が原基形(辞書形)である.今や世界の個別言語の中で英語のような時制言語の影響力大なるものがある.しかしすでに述べたように,現在では時制が支配的である諸言語も,それ以前の段階では時相が支配的であった.そして時相が支配的であった段階での完了の非完了に対する原基的関係についてネパール語の例で検討した.ここではもう一つの裏付けをのべる(Table 2).
    1-1でも述べたがここでも<単純な語が単純な概念に対応し複雑な語が複雑な概念に対応する>という法則に適合している.完了形がより単純であり,より原基的であるといえる.
    現代の趨勢は時相支配から時制支配への移行にあると見ることができる.それでも、<完了原基性の証拠がアラビア語として現存している>という事実には重みがある.
     はじめにでも述べたがアラビア語では動詞の担う役割は他言語に比して際立ったものがある(語彙の90%が動詞由来、動詞を含む文は動詞で始まる)。動作・状態は静止的な対象物よりも認識に上りやすい.静止的な対象物であっても言語使用者の対象的な働きかけの対象になったり,あるいは,何らかの阻害要因としてたち現れて初めて認識の対象になることを思えば,<動詞が諸語の語根をなす>というアラビア語のあり方はきわめて示唆に富んだものである.<ペルシャ語の過去形は完了の転じたものである>という見方を示したが,アラビア語を母語とするモロッコ他では日常会話中でのフランス語使用率はきわめて高い.モロッコの人々のアラビア語に対する見方では<アラビア語ももはや時制言語であって完了・非完了に基づく時相言語ではない>とみなせる.アラビア語も時制言語化の過程にあると見なせて興味深い.

Table 2. Formation of Arabic verbs.


3.2.3.日本古語
   日本語古語で過去の助動詞とされる<き><けり>は過去時制ではない.<き>は<確実に記憶にある動作や事柄について回想する>意味をあらわす(直接経験).<けり>は今まで気づかずにいた事柄に気づいて感動したり,驚いたりする気持ちを表すのが基本的な意味である(詠嘆,伝聞回想).これらは発話者の主観的な態度を表しており時制というよりも法と捉えるべきである.こうして日本古語の過去時制は法を引きずり時制になりきれない段階と捉えられよう。
    一方,<つ>は作為的,人為的動詞の完了を表す(人為完了).また<ぬ>は,無作為な自然の成り行きとして成立する動詞が語源と考えられる(自然完了).日本古語は時相をもっていたとみなせる.ただし,自然完了と人為完了の区別をもっていたことの中に多分に法的性格の強さを残し,抽象度・論理度の低さが伺える. <たり>はもと,<て・あり>であり動作の進行持続を表すものであった

4.時制の抽象性 ‐現在と未来

     古典アラビア語では時制は表面には現れていなかった.時制はきわめて近代的な論理性の上に成り立っているといえる.かくして過去時制は完了としての内実が近代的論理性を得て変化したものと見なしうる.
    過去(完了)の検討には他の時制の検討が欠かせない. 未来形の時制表示は過去形同様の接尾辞表示によらず,助動詞などで表示する言語が多い. 印欧語にはもともと未来形はなかった.英語についてみても古英語では未来形はなかった.古英語でのいくつかの動詞が後に助動詞に変わる過程が未来形の形成の歴史的経緯である.
    現代英語では過去形が,原型に<-ed>を付す形(規則変化型)でも,あるいは不規則変化でも等しく一語で表される.これに比べて未来形は別の語<will>などを加えて初めて時制表示が可能となる.ペルシャ語でも未来形は動詞<hohan>を付して表す.<hohan>は<欲する>を意味する動詞でもあり,同時に未来形助動詞としての役割ももつ.動詞<hohan>が助動詞として特化する歴史的途上の現象と捉えうる.このような複数語による表示は相対的後発性の証拠とみなしうる.現代英語における進行形,完了形などの時相や態もその表示形態から後発性が窺える.完了時相と法との関係について述べた事柄は,未来については法と時制についての関係について一層明確に言える.願望,意志,推量,判断などの法の表示がやがて未来時制の表示へと転じてゆく例が多くの言語で見られる.このことのもつ意味は極めて興味深い.
    願望・意思・推量など法は具体的で直接的である.<具体的な願望意思などが未来形の表示へと役割を変えていく>という変化の中に言語の発展が読み取れる.具体的な発話者の気持ちの表現がやがて時制を表すようになるのである.<言語史における直接具体的語義から抽象的論理的語義への変化発展>の跡が未来形表示の中に痕跡をとどめていると解する.
    時制のもつ抽象性は多くの言語において,いまだに未来形の確立を阻んでいるかに見える. すでに述べたように独立の未来形をもたず,現在形で未来を表す言語も今なお多い.そのことは<未来形はそこになくても用が足りる>ことを示している.このような視点からも,未来形は後発的とみえる.ところが,文字で書かれた,知られる限り最古語の一つのシュメール語の文書にはすでに未来は過去と同等の語尾変化で表示されている(BC3000年).さらにマジャール語では未来形の接尾辞<-and>や<-end>が古語では使われていたが今ではなくなったことをたどりうる.これらを勘案すると,未来形は後発性というよりも泉井久之介が言うようにその<未来様式が常に動揺し常に興亡している>[14]と見るべきであろう.<言語使用者一般の知性度がその抽象化にたえる>社会的背景があって初めて未来形の使用があった.<純度の高い未来性の理解は抽象的な理解能力を要求する>からである.
    現在形に関しては次の二点に言及したい.現在形の抽象化機能についてである.
①現在形はどの言語でも現今では常態化している.
②現今では現在形は現在ならびに没時制的事項の収容場所となっている.
   筆者は、未分化な叙述の中からまず、時に関して成立したのは、明確に起こったことの叙述,すなわち完了であったと捉えている。完了が明確化された場合非完了が残る.やがて過去が完了から派生し非過去(現在と未来)が非完了から生じた言語も少なくなかった.現今のこのような言語では現在形の正体は非過去であり,非完了である.また未来形をもつ言語も含めて,現在形には<時間を捨象した叙述>や<厳密には現在とはいえない状況描写>が含まれる.過去時制が事実を担い、未来時制は願望・意志など行為にかかわる表示や推量を担うとすれば、抽象性を帯びた論理を担うのは現在時制になろう。過去(や未来)以外の叙述は抽象的なものもそうでないものも現在形で表されることになる.真理・習慣なども現在形で表される. 高度に抽象性を帯び,時制を越えた普遍の思考を可能にするのは,現在形においてである. 現代人は現在形を中心的拠り所として時制を持ち,能動的な他動詞を駆使して関係性把握を行っている.こうしてより高度な言語を構築し,類として抽象化を進めているとみなしえよう.

5.おわりに

   以上,完了を言語発展史の結節点として位置づけることで,漠然たる対象把握から能動的な対象の関係性把握への言語史の内在的論理性の豊富化の歴史を辿った.そして人類的意識の形成と発展をささえる言語の意義を振り返ってみた.
    本稿の議論は動詞に焦点を当てての議論であった.言語発達史を考える場合どうしても言及しなければならないもう一つのテーマは人称と格に関してである.人称や格は文中にあらわれた参与者を含む名詞の他の成分との関係である.この問題に関しては他日を期したい.

引用文献

1. ノーム・チョムスキー,ミニマリスト・プログラム,外池滋生・大石正幸訳,翔泳社,東京1998.
2. 原田かづ子,第2章ことばの獲得,井上和子・原田和子・阿部泰明共著,生成言語学入門,大修館書店,東京,1999.
3. 藤田耕司,月間言語(5月号,特集・21世紀の生成文法),30-37,(2005).
4. 橋本敬,大航海(特集・言語と人類の起源),122-129,No.52 (2004).
5. 松本克己,言語研究,1-41,No. 100 (1991).
6. 金谷武洋,日本語文法の謎を解く,筑摩新書メチエ,東京,2003.
7. 泉井久之助,言語の構造,紀伊国屋書店,東京,1967.
8. 対象の姿を認識する場合には<対象に試行錯誤しながら働きかけた>,<対象獲得に齟齬をきたした>などの条件下で,初めて対象の姿を捉えることができるという側面がある.大地は,耕したときに初めてその存在が認識された.人々が<対象の姿をそのまま認識>し,しかる後に<対象に対する働きかけの認識>にいたるのであるが,そのことと,<“そのままの認識”を獲得する場合にすら対象に対する働きかけが,意識には上らないにせよ,前提されている(客観的に存在している)>ということとは,別の問題である.
9. 日本古語では自発から可能が分岐した.これはヒンディー語,ロシア語で可能の表現が自発と同じ与格主語文で表されるのとの類似性において興味深い.
10. 酒井邦嘉,言語の脳科学,pp. 256,中公新書,東京,2002.
11. 酒井邦嘉,言語の脳科学,pp. 287,中公新書,東京,2002.
12. 山口明穂編,日本語文法大辞典,pp.422-423,明治書院,東京,2001.
13. 梶原秀夫,言語研究,142,No. 99 (1999).
14. 泉井久之助,ヨーロッパの言語,岩波新書,東京,1968.

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