Symposium 5 "Submarine Hydrothermal Systems"

松野孝一郎

   海底熱水環境が化学進化に寄与する、との見解が示されてから凡そ四半世紀が経過した。海底熱水口の発見に引き続いて、それがやがて実験室内で模擬的に実現され、化学進化への意義を実験によって確かめることができるまでに至った。その主題は、化学進化の舞台として、他に見出すことの出来ないの海底熱水環境の独自さ、である。
   化学進化そのものを可能とする環境、エネルギー源には、原始地球上での大気放電、水中放電、星間宇宙に漂う塵への紫外光および宇宙線照射などがこれまでに注目されてきた。それらに比較して、海底熱水環境には、そのいずれにも見出すことの出来ない、特異さ、独自さがある。生物由来の酵素によることなく、小さな有機分子を互いに結びつけ、さらなる合成、伸張反応を引き起こす可能性が、それである。もちろん、高温・高圧の水溶液中での化学反応を可能とする熱水環境は、炭酸ガス、水、窒素分子からのアミノ酸の合成を吸熱反応ではなく、発熱反応でもって実現することを可能としながら、特異さはそれだけに留まらない。
   本シンポジウムは、海底熱水環境での化学進化が果たして生物進化へ至る準備の場になり得るのか、を検証するために企図された。
   熱水環境の特徴は、高温水が低温水に直に接することができる、とするところにある。Dieter Braunは高温・低温領域がマイクロメートルの寸法の範囲内で高温水が低温壁に接し、かつ循環する熱水系を、顕微鏡下に実現した。熱源にはレーザー光を用いた。この熱水循環系の特徴は溶液中の分子を、ある局所域へ集積させるとする機能である。原始海洋での化学進化を取り上げた際、一つの大きな難問は海洋中に溶け込んだ希薄な有機分子をいかにして集積し、分子相互の化学反応を可能とさせるか、にある。これまでに想定されてきた対策は、原始細胞がその内部に反応分子を閉じ込める、とするものであった。しかし、これはあくまでも、想定のままに留まる。原始細胞がいかにして生成されるかは、不問のままであった。この状況下にあって、Braunは温度勾配を伴う熱水対流系が分子集積機能を伴う事実を明らかにした。化学進化を取りまく難問にひとつの解決策が提供されることになった。
   原始細胞の出現は、それ自体で化学進化にとっての大きな問題である。Charles Apelは、飽和脂肪酸であるデカン酸から構成される細胞様微小球に着目した。デカン酸はギ酸、あるいは蓚酸を炭素源とすることにより、熱水口環境で生成可能である。それを担うのは、Fischer-Tropsch反応である。しかし、デカン酸から脂質微小球が構成されるには、溶液中の2価の金属イオン濃度が現状の海水中での濃度に比して、極端に低くなければならないことを見出した。原始海洋中での2価の金属イオン濃度が現在でのそれに較べてあまり変わらないとするならば、原始海洋で可能となる脂質微小球には、脂肪酸そのものではなく、リン脂質がかなり早い時期から準備されていなければならないことを示唆する。
   リンが化学進化において特に重要になるのは、核酸の出現においてである。この核酸の出現に熱水環境が関わっているとするならば、少なくとも核酸の熱安定性に関する知見が必須になる。Kono Lemkeは核酸分子の熱安定性、特に窒素塩基、ヌクレオシドの熱安定性を220°に至るまで測定した。
   海底熱水環境の化学進化への影響は、その根底にある物理過程の解明を促すことにもなる。Yasuhiro Futamuraは、熱水系が小さな有機分子、アミノ酸の重合、オリゴマー化に寄与する根底に、急激な熱勾配を突き抜ける分子移動が介在することに着目した。その確証を得るため、急冷手段に断熱膨張を採用した。グリシン単量体からそれの十量体の生成を確認した。熱水環境が化学進化に寄与する物理要因に、熱勾配が確かに関与していることを事実でもって証明した。
   熱勾配の化学進化への機能は単量体のオリゴマー化だけに留まりはしない。Atsushi Nemotoは生物の代謝過程の根底にあるクエン酸回路に着目し、クエン酸回路が生物由来の酵素を伴うことなく、熱水環境で作動するか、を新たな問題として取り上げた。炭素源としてピルビン酸を用いたとき、温度勾配が0°と120°の間に設定された熱水環境でもクエン酸回路の作動が可能であることを確認した。
   熱水環境を模倣した実験系が有意義であるのは、確かに原始海洋中に熱水系が活動していた、とする証拠がある、との前提においてである。Tomoko Adachiは原始海洋での熱水系の痕跡が現今の岩石中に残されているとするならば、それは炭酸塩、特に酸素と炭素の同位元素比に現われるであろう、と指摘した。
   海底熱水環境はそこで進行する化学反応に独特の影響を与える。今後の課題は、その複雑な地質環境を操作可能な化学、物理の言葉で置き換えることにある。この意図が本シンポジウムにて確認された。


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