Understanding of Evolution:
The law of Biological Energy Balance

Hiroko Shirai

Ushimado Mamrine Laboratory, Okayama University,
130-17, Kashino, Ushimado, Oku, Okayama 701-4303, Japan.
Fax: 0869-34-5211; E-mail: shirai@uml.okayama-u.ac.jp
(Received 27 May, 2003 Accepted 31 May, 2003)

Abstract

In starfish, Asterina pectinifera, parts of egg cytoplasm can be removed by microsugical techniques, and it is known that only 14 % of a whole egg (ca. 0.2 mm in diameter) is enough for the complete development including metamorphosis. Therefore 86 % of a whole egg is surplus. On metamorphosis adult buds are formed and larval mouth and anus are digested, and food supply ceases until adult mouth and anus are formed. Adult buds are never formed before larvae have reached a certain size, i.e. larvae have a critical size for metamorphosis (ca. 1mm). Larval bodies themselves can be regarded as a form of energy accumulation. These indicate that the function of the surplus energy in eggs is to shorten the larval duration and that of the larvae is to accumulate energy for the growth of adult buds. This is the case in extant starfishes: among hundreds starfishes, species with larger eggs (more than ca. 0.25 mm in diameter) do not have larval forms and develop into adults directly from eggs, whereas species with smaller eggs still keeps larval forms. Living organisms are always forced to keep the energy balance positive and to accumulate surplus energy as a whole for the continuation of the metabolism (avoidance of stop in metabolism, i.e. avoidance of starvation). Relationship between DNA changes and phenotypic evolution has been discussed. A new theory of evolution is proposed: the role of DNA in evolution is to stabilize the life styles that are adopted by species and not to control completely their life styles. Even if environments are kept unchanged, silent improvements (invisible metabolic improvements such as DNA reorganizations) progress because of premise of life.

Key words: a new theory of evolution, energy steady state, surplus energy, premise of life, teleology, Neo-Darwinism, the whole and the part, prejudice, creation of future, generative grammar.


進化の捉え方 −エネルギー的観点の重要性−

白井 浩子

岡山大学・理学部・臨海実験所
〒701-4303 岡山県邑久郡牛窓町鹿忍130-17

Fax: 0869-34-5211
E-mail: shirai@uml.okayama-u.ac.jp


文理閣の許可を得て、下記を転載します。
「生物における蓄積と相互作用−新しい進化観をめぐって−」白井浩子
『唯物論と現代』28号(特集2 現代自然科学と唯物論)、29-44ページ、2001

はじめに

 生物学分野から遠くにいる人々に、進化というもの、生命の本質について、私の認識の到達点を理解して頂けるように願っている。それは、一言で言えば、生命の本質ゆえの生物進化の認識、ということであって、進化における現在の通説であるネオ・ダーウイニズムと何が異なるかは、「進化の原動力を生命の本質に帰するところ」である。最近、ほんの600字ばかりで、その要点を書いたので、ぜひ利用して頂きたい(「しんぶん赤旗」 二〇〇一・五・四 研究ノート)。

 発生とは、私たちが身近に接する多細胞種における生活史(受精卵から成体形成まで。広義には個体の死まで含む)の過程である。どの種も、一定の発生過程をもち、それは正常発生と呼ばれる。正常発生について、まず形態や成分の変化が観察・分析され始め、現在では、成分のうちでも、特に遺伝子(DNA)やそれに規定されて生合成されるタンパク質が分析されている、というわけである。つまり物理化学の発達により、分析対象の実体レベルが、どんどん微視的・化学的レベルにまで及べるようになっている。けれども分析のレベルがどのように小さくなっても、これらの研究は、「正常発生の現状はどうか」という問いかけに属する研究である。他方、私にとって、発生に関する根本的な問いは、「なぜ、そのように正常発生が定まっているか」であって、いわば、「歴史科学的問いかけ」と言える。答えが完全になされないことが予測されても、この問いかけは全体像を見失わないために必要なことである。この姿勢での研究は、直ちに進化の問題と重なり、最近になって、新たな進化観ともいえる段階に到達した。できるだけ多くの人々に、生物進化の理解を深めて頂ければ、と希っている。なお本論は、現在、論じられている進化についての諸論について、一つ一つ批判を加えるものではない。主として、集団遺伝学の成果を紹介しつつ解説する。

一 遺伝学の発展とネオ・ダーウイニズムについて

 ダーウインよりも50年早く一八〇九年『動物哲学』においてラマルクは、確信にあふれて生物の進化を主張した[1]。 こうして、生物の神による創造という観念は、ダーウインの時代にはもはや、博物学者や知識人の間ではかなり否定されており、また栽培・飼育における変り種の作出の経験なども、市井の人々の間に生業としても蓄積された。しかし、全般的にはまだ、生物は今あるままに創造され不変である、という強固な心情が社会に行渡っていた。そのような状況においてダーウインは一八五九年に『自然選択の方途による、すなわち生存競争において有利なレースの存続することによる、種の起原』(『の起原』とする)を著わし、いわば、種の変遷の思想の集大成をしたのである[2]。生物種が変遷してきたであろう例を豊富に示し、いかに現在に至り、続いているかを説明することに力点を置いた。すなわち、栽培・飼育下における人間の選択行為が変り種を多く生み出す例、場所により少しずつ種が違うことの例(空間的な差)、化石が地層により違うことの例(時間的な差)、などである。

 ダーウインは変異については遺伝的なものが大事であろうとしたが、まだ遺伝の仕組みは全く不明で分らないとし、その考察は進めず、種内の諸個体にいろいろな変異が含まれることは前提とした。また、生物が多くの子どもを生むことについても、多産がなぜ可能かは考察せず、当時のマルサスを表面的に適用して、「もともと生物は種内に変異を持っており、多くの子どもが生まれるので競争があり、それぞれの条件に最も適した類が生き残るはず」と説明したのである。しかし、マルクスやエンゲルスの批判があるように、ダーウインの自然選択はもともと進化の結果の説明であって、進化の原因の考察ではない。この点に関しては、鈴木茂著「偶然と必然」[3]を、ぜひ参照して欲しい。しかしともかくも、それまで強固に形而上学的に合法性の基礎とされてきた古い「目的論」に対し致命的に打撃を与えた点に、ダーウインの自然選択(最適者生残)は、大いなる価値を認められた。ダーウインの考えは、象徴的には、survival of the fittest と言われる。

 その後、科学の発展、とりわけ物理学・化学が発展し、有機化学が進み、それらの技術が生物の成分分析に用いられるようになった。生物体(細胞)の主成分はタンパク質という大きな分子であって、その構成要素はアミノ酸であり、それが直列に結合してできている分子であることが明らかにされた。やがて、細胞の核の主成分が、核酸(DNA)という巨大分子であることが明らかにされ、四種の要素(塩基という。GCATと略す)がリン酸と糖とともに並んで結合している分子であることが明らかにされ、その、塩基の配列順も分析可能となった。タンパク質の構成要素が二〇種のアミノ酸であり、DNAの構成要素が四種であることから、一九六〇年当時は、「魔法の20、魔法の4」と驚かれ、不思議がられた(いまでも、その必然性は未解明)。そうして、DNAの特定の塩基配列(遺伝子)に規定されて、タンパク質の性質(アミノ酸の配列。一次構造という)が、決められることが明らかにされた。DNA鎖の中の塩基の三つ並びが特定のアミノ酸を規定するのである。この三つ並びを遺伝子のコドンという。四塩基からランダムな三つ並びは六四種あるが、三番目はどの塩基でもアミノ酸は不変であることが多いので、ちょうど二〇種のアミノ酸用コドンとなる。分子遺伝学の成果としての、セントラルドグマの確立である[4]。

 各種の生物体を構成する大きな分子は、タンパク質に限らず、どれもそれぞれ特有の要素から出来ている(糖、脂質、核酸など)。特に動物は必ず他の生物を食物として食べるが、食物は消化され、タンパク質は一旦、要素に分解されてから吸収され、改めて、その生物種自身のタンパク質に合成されるので、何を食べても生物体の成分が食餌のタンパク質に”変質”してしまうことはない[5]。詳述は略すが、どの種の個体でも、種としてのDNAセット(遺伝子セット)が細胞分裂において安定的に複製される。すなわち、一個の細胞という受精卵(卵子と精子という細胞が、種に固有のDNAセットを一組ずつ持ちよって合体する)から発生が始まり、この受精卵が細胞分裂して細胞数が増殖することで成体が出来る。この際、どの細胞分裂でも、DNAセットは、塩基配列が保存されるように複製される。かつ、配偶子(卵細胞と精子)の形成の場合のみDNAセットが一組になるような特別な細胞分裂をする。これらの仕組みに基づいて種としての固有のDNAセットが安定的に代々保たれ、その産物としての固有のタンパク質も合成されるのである。こうして、遺伝子構造(DNA構造)も、タンパク質構造も、種として一定に保たれるという遺伝機構(もしくは自己増殖機構)が解明された。生物の機械論的側面である。

 しかし、ここで確立された種の安定維持(固定性・不変性)の機構は、比較的短時間において成立する遺伝機構である。地球史という長大な時間のスケールではこの固定性は成り立たず、ここでは、ダーウインが集大成したように、種は変遷する。生物は短期的には遺伝機構により安定性があるのに、長期的には変遷するのはどういうわけか。ここにおいて、ダーウインの自然選択と、分子遺伝学の成果が結合した。ネオ・ダーウイニズムである。生物進化での適者生残とは、「まず、DNAの塩基配列がランダムに種内の或る個体に起こり、これが有利ならば選択されて種内に蔓延するはず」という考えである。

 これはあたかも、物理学において、マクロな物体の基礎に不確定性関係が横たわることの認識が進んだように、進化という生物現象の背後に、生化学反応レベルでの偶然さを原因として求める、という理解であって、モノーなどは自身も大変、新鮮な喜びを感じたように見える[6]。しかし、この偶然性重視は一方では、セントラル ドグマに依存する機械論であって、これ一点張りでは進化の示す合目的特質(適応の成立)を捉えられず、偶然の結果を原因と取り違えているに過ぎないことが、前述の鈴木によって詳しく批判されている(鈴木、上掲書、二六二ページ)。それでもこのネオ・ダーウイニズムは、一見、従来の古い目的論(生気論)を排しているところが現代的に納得でき、多くの専門家も意外と思いながらもこのネオ・ダーウイニズムを信奉し、この趣旨に沿った多くの解説書が書かれ、一般の人々にもその考えが浸透した。

二 「分子進化のほぼ中立説」と 現代進化学の課題について

 しかし、木村資生(集団遺伝学)は、種間に検出できるタンパク質のアミノ酸構造の差が、みな、有利(適)ゆえに選択されて置換(或る変化をもつ個体が出現後、ついに種内において100%の個体がその変化をもつようになること。遺伝的固定ともいう)しているとすれば、背後におけるDNA変化の生起数は、世代ごとに大変大きくなるはずであることを統計学的に発見し、そのような頻度高い変化の生起はありえないことを明らかにした。そうして、ネオ・ダーウイニズム全盛期において、「分子進化の中立説」の提唱に到ったのである[7]。これは、「種間におけるDNA差について、それらが種内に置換するのは、自然選択(有利ゆえの生残)によるのでなく、変化は中立であって、偶然の結果であるはず」という仮説である。この偶然 とは、遺伝的浮動ともいい、多くの配偶子のうちから、有限数の配偶子しか次代とならないような条件下で起こる偶然な偏りなどを意味する。木村の「分子進化の中立説」は象徴的に、survival of the luckiest と表わされる。

 引き続き、多くの遺伝子の塩基配列(DNA構造)が、直接、分析可能となり、データがさらに蓄積した。それによると、種間に認められるDNA差は、タンパク質を変化させないような差であることが殆どであることが明らかであった。前述のように、コドンの三番目は変わっても、アミノ酸が変わらないことが多い。このような変化を同義変化という(アミノ酸が変わる変化は、非同義変化)。検出される種間のDNA差の多くが同義変化であるという事実は、何よりも木村の「中立説」を支持した。

 ところが続いて太田朋子(木村の高弟)は、中立説では説明のつかない事実を発見した。相同タンパク質の遺伝子について種間の塩基差をさらに詳しく見ると、大集団種では小集団種でよりも、低率しか非同義変化を置換していない、という事実の発見である。これは、四九個の相同タンパク質の遺伝子DNA差について、同義変化(中立と捉えられる)と非同義変化に分けて、大集団種(ネズミ)と小集団種(ウシやヒト)とで比較したものである[8]。すると、小集団種では、同義変化に対して非同義変化はほぼ同数であるのに対し、大集団種においては、同義変化は小集団でよりもずっと多いのにもかかわらず、非同義変化が少ない傾向が明らかだったのである。すなわち大集団種では、一般にDNA変化は多く起こっているのにもかかわらず、非同義変化は置換に至りにくいこと、つまり、排除が有効に作用していることの発見であった。小集団では、遺伝的浮動という偶然が、その微弱な有害さを上まわる(たまたまその変化が有利になる場合、小集団では環境が全個体にとって大集団でよりも均一であるため効果が一斉に及びやすい)などのために、置換率が大きくなる、ということである(ただし、一斉に不利になることもあるので、小集団種では絶滅も多いことになる)。

 このように、置換に到ったDNA変化の多くが、中立よりも「ほぼ中立」(微弱有害)に偏っているとみなす太田の説が、「分子進化のほぼ中立説」である[9,10]。いまや「分子進化のほぼ中立説」が、近年(1997-1999)世界の学会での合意となった[11]。かくして、ネオ・ダーウイニズムの主張する「DNA変化のうち有利な変化が選択されて種に蔓延するはず」の傍部分が成立しないことが明らかになった。念のために付言すると、木村も太田も、生物の現状に見られるDNA構造の種間差という分子現象を、生物進化とは一旦切り離して捉え、その分子現象がなぜ成立するかについての理論(仮説)を提唱したのである。二人とも、分子進化と生物進化とを決して混同しない。この混同は多くの人に見られるので、特に注意が要る。二人とも、分子進化と生物進化とを対立するものとは捉えず、生物進化の理解のために、分子レベルの分析が有益だとするまでである。

 太田は最近、次のように発言している。「世界において『分子進化のほぼ中立説』が市民権を得たので、進化についての今後の課題は次である」と (太田・私信)。すなわち、「『分子進化のほぼ中立説』と『生物進化(表現形の進化)』との関係を明らかにすること」が課題であるというのである。これは、「種間に検出できるDNA変化(遺伝子の構造の差)は微弱有害がほとんどなのに、なぜ、生物では適応が進行するか」に答えることである。太田はまた、「未だにネオ・ダーウニズムを信奉するものも多い。科学者は保守的である」と発言している。

三 生物における蓄積の形態とそれのもたらすもの

 はじめに紹介したように、私の研究が最近、太田の挙げた進化の課題に答えを与えるような局面に到った。それは、生物現象の根本的な支配法則として、エネルギー収支が存在していることの認識であり、いわば、生物の唯物弁証法的把握にあたると思われる(理論の生物学への適用ではないので、こう言わざるを得ない)。以下にこれを、具体的に解説する[11-14]。異分野の用語にも、慣れて頂くようお願いする。

 イトマキヒトデが実験材料で、このヒトデの受精卵から始まる発生についての実験である。どの多細胞生物の発生も、受精卵から始まるが、これは単一の細胞であり、口などの構造はまだなく、外界からのエネルギーは摂取できない。口が形成され(受精三日)摂餌を始めるまでは、あらかじめ卵に蓄えられた自前の栄養エネルギーで全ての反応に必要なエネルギーを賄うのである(従って、受精卵から、摂餌開始までは、手持ちのエネルギーは減っていく)。

 さて、受精卵(直径およそ〇・二mm)に、微細な手術を施して、細胞質を除去して発生させることができる。たとえば、細胞分裂が起こって受精卵が二細胞や四細胞になったとき、それらの細胞を別々に分けて育てることが出来、これは一卵生双生児とか、四つ子というわけである。これらは、いずれも完全に発生でき、変態もする。さらに細胞分裂して八細胞になったときに分離すると(八つ子)、或るものは幼生の一定段階まで発生が進行しても、変態に到らずに必ず死ぬ。つまり、発生が完全にできるかどうか(成体になるかどうか)の境が、四細胞時と八細胞時の間(分裂ごとに細胞の体積は半減するので、分離した細胞の大きさとしては完全卵の二五%から一二・五%の間)にあることがわかる。この境を詳しく調べると、詳述は略すが、完全卵の一四%しか細胞質がなくても発生が完全な場合があることが分った。

 ここで重要な発見は、少量の細胞質から発生を始めた場合、形成される幼生は初めは小さいが、変態する時は正常時と同じように、およそ一mmに育ってから変態することである。すなわち、変態には一定の幼生サイズがある(臨界サイズ)。完全卵から発生した場合はおよそ二週間で臨界サイズに達する(変態する)のに対して、一四%から出発すると八週間もかかって変態に到る。少ない細胞質から発生を始めた場合は、臨界サイズという同じサイズ(細胞数・有機物の蓄積)に達するのに時間がかかるということである。こうして、イトマキヒトデの完全卵には、八六%もの余剰が含まれていることがわかった。卵というエネルギー蓄積形態である。この余剰エネルギーの役割は、上述のように、幼生期間を短縮することであり、この短縮は、必然的に生存率を上げ得る。なぜなら、幼生の運動能は小さくてプランクトン的生活であって(浮遊生活という)イソギンチャクなど多くの天敵に容易に捕食されるからである。

 正常な発生では、受精後、細胞が五千個ほどになったとき、細胞群が3種区別できる。外壁(外胚葉)、消化管(内胚葉)、これらの中間に位置する骨・筋肉など(中胚葉)である。この時期に口が開口して摂餌を始める。幼生の生きざまは一言でいえば、犬も歩けば棒にあたる、という方式である。すなわち、眼や舌など感覚器官をもたず、餌を目指して泳ぐことはできず、ただどうしても繊毛(外壁の細胞に生じている細い突起。ボートのオールのように水をこぐ)が動いてしまうことで身体全体を遊泳・移動させる。このときたまたま周囲に餌があればそれが口に入る、という生きざまである。幼生の細胞が卵ゆずりで持つ自前のエネルギー余剰に依存して、生存に伴うエネルギー消耗が起こり得て(繊毛を動かすにもエネルギーが必要)、その消耗分を後から摂餌で獲得して取り返す、という順である(海には必ず餌が存在していることが前提であることが納得される)。すなわち、生長自体が、幼生体を構築するという有機物エネルギーの蓄積であって、つまるところ、生長時代はエネルギー収支のプラスの持続である。人間でも、ほぼ三kgで生まれた赤ちゃんが、五〇kgの青年(成体)に生長するが、この分、有機物が個体に蓄積されるわけである。

ヒトデではその後、或る段階で幼生体内に成体芽が形成される。これは、成体の五放射体制の元であって、中胚葉から由来する細胞群である。変態時には、成体芽と、内胚葉(胃の主要部)と、外胚葉(腕と呼ばれる領域)とが組み合わさり、三胚葉そろって小形の成体を構築しつつ、従来の幼生域の大部分(消化管では食道と腸など)を消化・吸収する(胃は残って一旦、盲嚢となる)。こうして、成体の口と肛門があらためて盲嚢の胃から形成されるまでの数日は、発生初期と同様に、外部からのエネルギー供給が途絶え、全ての変化に必要なエネルギーを再び手持ちのエネルギーで賄わざるを得ない。このエネルギー分が、上述したように、幼生域という有機物なのである。つまり、成体が無駄なくスムースに形成されるのではなく、幼生という有機物が余分に蓄積して、それを元手に成体芽の生長という次の段階(変態)が進むのである。一四%以下など、少な過ぎる細胞質から発生した小さな幼生は、幼生生長という、さらなる有機物蓄積の局面に転じられず、成体芽形成という蓄積もできず(〇・三mm以上に育てず)、次第に一層小形となり、ついには個体の体をなさず崩壊してしまう。卵由来のエネルギー備蓄と餌からのエネルギー獲得分とを上まわるエネルギー消耗があると予測される。

四 新しい進化観 ―蓄積と退化の同時進行―

 このような事実から、当然に次が予測された。すなわち、「もし、何らかの方途で成体にエネルギーが供給されるなら、幼生は不要になるであろう」と。この予測は正しいのである。すなわち、世界における何百種ものヒトデについて、卵サイズ(直径)と発生の仕方の関係を調べると、およそ一/四mmを境に、それより小さな卵をもつ種では(小卵種とする)イトマキヒトデと同じように、一旦、幼生を経て変態する発生形式(間接発生)だが、それより大きな卵を持つ種(大卵種とする)では、もはや幼生をつくらず卵から直接に成体が形成されるのである(直接発生)[15,16]。まさに現在退化中の幼生形(口も持たず、摂餌せず、甚だしい形態変異を示す)をもつ種もある。現生の(過去でなく現在、存在の)ヒトデでは、幼生とは、成体芽の生長のためのエネルギー蓄積・供給が役割なのである。卵のエネルギー蓄積の進行がもたらす幼生の省略(退化)は、生物の多くの種で認められる。また卵以外にも、一般に、不要域の退化という退化器官の存在も、生物には普遍的である[17]。

 変態(幼生用の三胚葉と成体用の三胚葉の交代)は、幼生が臨界サイズに達した時に起こる激変との印象を、一見、与える。しかし、事実を熟視すると、上に述べたように、胃は変態時に消化されず、成体に引き継がれる。従って幼生の消化管のうち、従来、胃とみなされてきた部域は、既に成体領域なのである。変態時に消化される内胚葉部域は、胃の前後にある貧弱な食道と腸であって、これが本来の(旧い)幼生の内胚葉とみなせる。このように、現在のヒトデ変態というものは、いわば発生初期空既に始まっている(胃の形成は、非常に早期に起こる)と理解すべきであって、幼生構造とは、本来(旧い)の幼生域とこれから成体になる領域とのつぎはぎのモザイク構造と捉えられるのである。退化域をかつて担っていたであろうDNA(遺伝子)が、劣化して潜在化していることが予測される。

 以上、生物の示すエネルギー蓄積の形態(卵の大型化、幼生の生長、成体芽の形成、成体の生長)と、それがもたらす退化(消滅)を、具体的に紹介した。かくして、生物体の現状とはいつでも、当面の優勢域(機能域)に加えてエネルギー余剰域、つまり、まだ機能が一定に確定していない単なるエネルギー蓄積域(卵の大型化とそれ由来の胃。一般的には萌芽域)と、不要になる退化域(消化される幼生域)という二種類の余剰域が合わせ含まれているものであるとの認識に到った。現状とは、過去の経緯を受け継いでいるものであって、エネルギー的に無駄なく効率の良い、必須のものだけが見事に調和しているというすっかり適応しきったものでは決してない。たとえ、構造が存在し、遺伝子が発現していても、必須とは限らず、単なる遺物であることもあるのである。

 一方、余剰蓄積が進行するにつれ、古いものは順に一般にいつかは退化していくかというと、そのように機械的なものではない。その生物種の存続にとって必須化したものは退化できず蓄積して重層化していく。このような維持(退化不可)のもっとも普遍的な例の一つが、発生が一細胞から始まらなければならないことであろう。

 こうして、生物のどのような新機能(を持つ種)も、初めから目指されて過不足なく形成されるのではなく、まず現状の体制のままながら、目的されない付随的な蓄積が起こり、生物が採用する生活形に依存しつつ、これが既存のものと相互作用(共役の成立)しあい、新しい機能へと転化していく(同時に別域で退化も進行する)、という一般化された進化観に到らされた。現状において、類が不連続的に区別されて認識されるのは、過去からの蓄積・退化の進行ゆえの断絶(飛躍)が形成されているということである。ここで、多くの人が用いる退化という言葉に注意を喚起しておく。退化は、進化の反対概念ではなく、進化に内包される低位の概念である。つまり、進化とは、まず何らかの蓄積があり、他方、それに依存して退化が可能になるという動的継続である。この蓄積を前提とした退化の変化がないこと、つまり停滞(これは単なる有機物である)こそ、進化の反対概念である。こうしてみると、生物進化とは、一層一般的には、ものごとの発展というものの、生物版と捉えられる。

五 生命の本質―太田の課題への答え―

 しかし、なぜ、このエネルギー蓄積が進行するのだろうか。それは次のように考察できる。生物とは、前述の幼生の生きざまのように、生存というだけで代謝エネルギーの消耗なのであって、代謝が継続するには、消耗分のエネルギーを取り返さなければならない。このために、またエネルギーを消耗しなければならないのである。生物の生存とは、このような条件の矛盾を含む動的な状態なのである。

 代謝が不要な領域は単なる有機物であって、もはや生命としての意味ある存在ではなく、変態時の幼生域など、まさにこの面が現れるのである。個体内で起こる個々の代謝反応のエネルギーレベルは主として電磁力レベルであるが(後述)、単なる諸反応の無関係の混合・集合でなく、個体のまとまりの中において代謝が継続可能なようにエネルギー余剰が全体として保持され続けなければならない。当たり前のようであるが、生命のエネルギー法則と名づけられる。

 こうして代謝継続のために、常にエネルギー収支をプラスに保たせる圧力がかかりつづけ、余剰エネルギーの蓄積(飢餓の回避)という方向にしか、進化の方向は開かれていないのである。生命のもつ内在的目的とは、このような、生存の継続として捉えられ、生命の本質に根ざす。こうして生物体は、飢餓の危険と栄養余剰エネルギー蓄積を同時に含まざるを得ない。だからこそ、必ず存在するその余剰に依存して、微弱有害なDNA変化も排除されずに、多く維持されるのである。太田の挙げた現代進化学の課題の、前半への答えがこれである:「エネルギー的余剰を持つのが生命の本質であり、どの生物もエネルギー余剰をもつので、DNAに微弱有害な変化が起こってもしれがすぐには排除されずに済む」と。

 遺伝子(DNA)変化の場合、微弱有害でも許容されて蓄積・存在するものは、微弱有害を越えて、むしろ可能性を含むのである。その可能性とは、許容された変化と、既存の生物体(蓄積物)との間に生じる相互作用であって、蓄積が多ければ、相互作用の可能性も多くなる。木村もそれに言及している。またこのことは、生命発祥から今までの40億年において、初めの25億年が単細胞であった(なかなか蓄積がすすまず多細胞レベルに届かなかった)という、古生物学上の証拠にもうかがえる[18]。

蓄積分には、DNAそのものの蓄積も含まれる。構造の余剰域・不要域を担うDNA域には大幅な変化が許されるから、DNAの一定量のまとまった挿入や欠損があっても、その個体は存在に打撃を受けず、種から排除されず維持されるであろう。生物界全体としては、種のDNA量は時代を経るにつれ増加している。必ずしも、生物界の系統につれてスムースに増加の一途をたどるのではないが、一旦大量に蓄積されたDNAが、同一系統内では、漸次、編成替えされながら減少していく傾向が認められる[19]。

 太田の挙げた課題の後半、つまり、「分子進化と生物進化(表現形進化)の関係はどういうものか」に対する答えは、以下である。進化の経緯はまず、生物がDNAに規定されながらも生活形を(代謝継続)やりくりして生存を続けることが先である。同じDNAでも、表現形は大きく変わりうる(戦後、日本人の身長は、ほとんど世代も変わらぬうち、数cmも伸びた。表現形は、同じDNAでも大幅に可変なのである)。DNAの反応は生体成分の一つである化学分子の反応であって、生物体の一部をなすものに過ぎない。そうして現在のDNA機能は、ネオ・ダーウイニズムが捉えたような、「偶然の変化により進化の先陣を切ること」ではなく、むしろ全く反対であって、「変化する生活形を後からそれを安定化するように一時的に固定化・記録化して(編成替えされつつ)、以前の生活形態には後戻りさせないようにする」のである。この一時的な記録・固定化があるからこそ、生命の原初時代の直前における、個々の刹那的な化学反応の、単に無秩序な集合状態にいちいち引き戻されるのでなく、余剰エネルギー蓄積に先導されつつ、ジグザグの経緯をたどりながらも、全体としては前進的な進化という積み重ねを進行させ得たし、今後も出来る。進化という生命の本質の原因を、現象レベルの異なる化学反応の偶然性に帰すような論理は誤りである。

 進化の推進力は、一定の時代(地球史レベルの時間)に種が全体として示す生活形・生き方であって、種内の全個体に及ぶ。主な内容は、どんなエネルギーを獲得し、どんなエネルギー消耗をするかであろう。当該の生活形態によって、生起したDNA変化のうち、何を維持するか、何を排除するかという、DNA変化の編成替えは異なるのであって、DNA変化を選択するのは種の生活形である。エネルギー収支がプラスでありさえすれば、進化の方向は多様であって、必ずしも二分岐とは限らない。人では、社会性と精神のレベルに踏む込み、目的を意識化するという特徴は一層顕著であり[17]、進化の速度も大変速くなっている(ホンの五〇〇万年前に、猿と別れ始め、現在に到っている)。

かくして、余剰エネルギー蓄積に到らなかったものは滅んだが、蓄積の少ないものもある。エネルギー収支がプラスに保たれれば生存可能なのであって、現在存続していること自体が、エネルギー収支がプラスに維持されてきたことの証拠なのである。従って、新しい進化観では、最適者生残ではなく、「悪くなければ生残」と表わされる。可能ならば生残、が最もふさわしい表現と思われるが、同義反復的になり、説明を要するので避けた。何よりも、生物の生活が生存を左右するのである。

六 生物の全体における位置

 何ごとによらず、対象の理解が深まるということは、その対象の全体における位置を把握する、ということと深く関係している。そこで、存在における生物の位置について、考察しておく。まず、現在、私たちが知りえている存在の階層を、文献[20]を参考にして、私なりに表した図を示す。存在の階層を、大きく三系列に捉える。それらは、物質系列、生物系列、社会(歴史)系列、である。或る階層内のあれこれの現象を支配するエネルギーレベル、現象の起こる時間、次の階層にいたる蓄積の形態、および、その階層が成立した歴史的時期に違いがある。

 この図の見方には注意が要る。それぞれの系列は、時間経過を含んでおり、かつそれぞれに現在も進行中の発展と捉えられる。ビッグ・バン後、大変、短時間にエネルギーの偏在が起こって物質化が始まり、素粒子・原子核の形成(一-三〇〇秒後)、水素・ヘリウムなど原子の形成(一〇万年後)などが起こった。天体の形成とその相互作用があたかも生物個体の発生のくり返しのように継続し、その時のエネルギーにより原子番号の大きな元素が形成され(三〇万年後)、今も、形成されつつある。そのような元素が集まって天体としての地球が形成されたのはおよそ一〇〇億年後、つまり現在から五〇億年前である。生物はその地球上に、その形成後ほどなく、化学進化(有機物質の非生物的形成・蓄積)の時代を経てから出現した。

 図の生物系列の線上には、個体、種、生態系がこの順に、一見、時間を追って形成されたように見えるが、それは正しくない。生命発祥において、生物はすでに、この三階層(細胞という個体、同類という種、それら同士の相互関係と環境との関係全体としての生態系)を、貧弱な内容ながら含んでいたのであって、時間の経過につれて、それぞれがみな豊かに多様になり、かつ、それらの相互作用も複雑に発展したということである。この発展の経緯は、すでに、個体のレベルを代表させて、ヒトデ卵と幼生の例で具体的に述べたように、蓄積の先行と、増強・退化の追随である。この経緯は、一層大きな階層でも当てはまる。例えば生態系では、大きく複雑に発展した種だけが存在するのでなく、大きな種の出現や存在は、小さな単純な種の存在・蓄積を前提条件に出現・持続するのであって、生態系としての一定の定常状態(安定状態)が維持されるのである。


  図1 存在の階層 それぞれの階層には、その存在を肯定する(まとめる)力と、否定する(解消する)力がある。 物質主系列におけるまとめる力のみ表記。否定する力(プラズマ斥力など)は略してある。文献20から。

 なお、私が生物系列の階層として取上げたのは、それ自体、一定の条件下で全一性の認められるものである。生物の階層として、細胞、組織、器官、個体という系列が挙げられるのをしばしば見るが、これを採用しない[21]。細胞、組織、器官などは、個体の部分であって、発展につれての内容ではあるが、全一性をもつものではないからである(増殖の単位とならない)。個体という階層には、単細胞という個体もあるので特別であるが、この場合、階層の範疇としては、個体を取るべきである。これは言わば、水素の原子核(陽子)は、プラズマ中にある場合は、素粒子の階層に捉えられるべきであろうが、それが水中にある場合は、他者との相互作用において介在するエネルギーが電子レベルの電磁力であるという点で、水素原子(イオン)として捉えるのが妥当であるという事情に似ている。

 なお、この階層の把握に関して、興味深い著述が見られる[22,23]。世に、「ニワトリが先か、タマゴが先か」とは、堂堂巡りで議論に埒があかない事の例えとして、よく言われることである。しかしこの著作は、こと、生物進化に関して言えば明白に、ニワトリが先、であることを述べたものである。単細胞であった時代にはそれが個体(ニワトリ)であったのであって、その時代にタマゴという実態は存在がないのである。発展の後、個体の中に、タマゴが出てきたのである。ヒトデの例の中で、「発生において一細胞という卵は、退化不可」と述べたが、この一細胞の範疇は個体なのである。進化現象は遺伝機構だけでは認識できない。

 この図の、もう一つの注意は、人間の精神の発達は社会性との関係において捉えなければならないことである。この社会(歴史)系列には、人間の精神(および、その産物としての文化)の発達も含められ、ここでは人間の意志によらなければ何ごとも進まない。その点をよく了解して、この図を利用して頂きたい。社会発展(歴史)および、人間精神の発展をもたらす蓄積がどのようなものであるかを、他の存在の発展と統一的に捉えるのは大変嬉しいことであり、かつ、社会における蓄積の実践に参加することは希望があって心躍る。

おわりに

 ダーウインの予測した、生物同種内における有利・不利による競争は一般には成立していず、特に動物では多産された次世代の個体の死は、むしろ、生命の本質に根ざした種間の食物連鎖という捕食関係による消滅である。何よりも、多産それ自体が、エネルギー余剰の一形態である。とはいえ、躯体が大型化した動物では、神経も発達し、個体間の相互作用も、行動の複雑化となって現れ、競争も認められる。それでも、生態学的に新天地(捕食者のいない空間)が開かれる場合などに(古生代から中生代において、動物が上陸した時とか、大陸の連結時など)、多くの種の分化(適応放散)が認められる、ということは、進化が根本的にはエネルギー法則に制御されていることを示唆している。生物は徒に闘いはしない(捕食・摂餌は闘いではなく、生命の本質である)。また、栽培や飼育の本質は、エネルギー消耗分を取り返すためのエネルギー獲得に要するエネルギーを軽減させる恩恵を、人が生物に与えることが本質である。この恩恵がなければエネルギー収支が破綻し(飢餓)、生存不可であるような変異体も、排除されずに維持されるということが本質である。従って、そこで維持される変異は、自然下でよりも多いのは当然である。

 以上、自らの具体的実験に基づいて到達した生命観と生物進化について解説した。このような認識の利点は、無限ともいえる課題を導き出せることではないだろうか。いまだ未解明なことは、一つ一つ調べていけばよいのである。例えば、非生物から生物への飛躍(生命の発祥)にあたっては、原初生命の成立の頃、DNAがどのような機能を主要な役割としていたか、やはりエネルギー条件を根底に据えて考察を行うのが有益と思われる。

文献

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