Progress in Biolinguistics
− Geneses of Language - A View from Generative Grammar −

Koji Fujita

Graduate School of Human and Environmental Studies, Kyoto University
Nihonmatsu-cho, Yoshida, Sakyo-ku, Kyoto 606-8501, Japan
Phone: +81-75-753-6643, Fax +81-075-753-6559
E-mail: kfujita@french.ic.h.kyoto-u.ac.jp
(Received 12 May 2003 Accepted 13 May)

[Abstract]

Generative grammar constitutes one major branch of theoretical linguistics, but its more important role as biolinguistics can be found in the interdisciplinary field of human biology. By exploring one particular instance of the cognitive faculties of our species, i.e, the Language Faculty (or the Language Organ), researchers in generative grammar/biolinguistics aim to elucidate the fundamental properties of human intelligence, or human nature itself. In this paper, we overview the main topics of generative grammar/biolinguistics to see how deeply they are intertwined with those of modern biology. In particular, we take a new and enlightening look at the familiar issues of the nature, acquisition and evolution of the human language, its universality and diversity, and its economy and redundancy. These are here rephrased in terms of three different levels of genesis of language, i.e., microgenesis, ontogenesis, and phylogenesis, in the hope that their possible unification may be forthcoming.

[keywords] Universal Grammar, Minimalist Program, universality and diversity, optimal design, economy, redundancy, microgenesis, ontogenesis, phylogenesis, Neo-Darwinism

生物言語学の展開 -生成文法から見た言語発生の諸問題-

藤田 耕司

京都大学 人間・環境学研究科
〒606-8501 京都市左京区吉田二本松町

075-753-6643/6559(fax)
E-mail: kfujita@french.ic.h.kyoto-u.ac.jp


1. 本稿の背景とねらい − 序にかえて

「生物学としての言語学」を掲げる生成文法(Generative Grammar)という言語科学の方法論が、当時まだ20代の青年であったNoam Chomskyによって提唱・発動されたのが1950年代の半ば、以来すでに半世紀の時間が経過したことになる。その間、いわゆる自然科学・人文科学の(あまり根拠が明確とも思えない)垣根を超えて多くの隣接諸科学と相互に影響を及ぼし合いながら、生成文法内部においても幾度かの大きな理論変革を経て現在は「ミニマリスト・プログラム」(ミニマリズム、極小主義)と呼ばれる研究戦略が採用されるに至っている。
 この新しいプログラムはそれまでの生成文法といくつかの点で人間の言語能力に対する基本スタンスや問題設定法が大きく異なっている。私見では、このミニマリスト・プログラムの登場によって生成文法はようやく本来の「生物言語学」(Biolinguistics、ヒトの言語能力の生物学的・自然主義的研究)としての立場を鮮明にし始めたと言えるのではないかと思われる。しかしその一方で、生成理論と生物学諸分野との交流は必ずしも目に見えて活性化されてきたという印象は受けにくく、むしろ、言語能力がヒト種に固有の遺伝的・生得的資質に根ざしたものであるという従来からの生成文法の基軸には共感を覚えながらも、この理論の急速な抽象化・精鋭化、またそれを背景に素描しつつある人間言語の実像には違和感をつのらせる生物学者も多いのではないだろうか。
 原因のいくつかは簡単に見つけることができる。まず自明なこととして、生成文法の現場においてなされている研究の大部分は理論言語学の枠内に限定された高度に専門的なものであり、その成果が生物学にフィードバックされるような形では提示されていないことがある。(特に我が国においては)大多数の生成文法研究者が実際に行っていることは言語事実の観察と分析をとおして人間の言語能力の普遍的特性をモデル化することであり、生物学者ではない彼らがその作業なり成果を生物学的議論の俎上に載せることを当面、困難または不必要だと考えたとしても無理からぬことであろう。  同種の問題は諸科学の分業制度が極限まで徹底された現代においていたるところに噴出しているのであり、異分野間の交流(のみならず同分野内の下位領域間交流すら)の可能性は全体として下降線を辿らざるを得ない。生物学的発生過程に似て、科学の進展も分化と統合の道程であるから、来るべき統合に備えながらこれまでの我々はさらなる分化の段階にまだあると考えよう(Synthesis by Analysis)。
 より深刻な、そして本論考にとってより関わりの深い事情として、幾分なりとも生成文法を知っている生物学者にとって、現在の生成文法の方向性は現代生物学の流れにむしろ逆流しているような印象を受けかねないものであるという点がある。
 いくつかの論点を整理しておかなければならないが、主に二点を指摘することができる。まず第一に、かつての生成文法が生物学的な系の一例として言語システムの余剰性、無駄の多さを指摘していたのに対し、ミニマリスト・プログラムでは言語の経済性・最適性・簡潔性を重視し、言語システムを余剰性が一切ない、ある種完璧な系としてとらえようとしている点。
 「生物学としての言語学から物理学としての言語学へ」と時に描写されることがあるように、生成文法は我々の言語能力とりわけ統語計算システムに課せられる条件が自然世界に作用するより普遍的・根源的な物理・数学的法則の一例であるという可能性を示唆し始めている。これはちょうど分子生物学や生物物理学、生化学がとらえる還元論的ないし機械論的生命観に相通じるものがあるのだが、一方で我々はそれだけでは生命の真実は語り尽くせないことをよく知っている。その複雑さにおいて生命現象に勝るとも劣らない言語を果たして自然法則だけで記述できるのか、といった疑問が生じるも当然であろう。
 第二に、人間言語が生物学的能力である、言語学は生物学の一部である、としながらも、ならばその先に当然問われるべきはずの重要課題である言語の起源と進化の問題が生成文法においては置き去りにされている(ように見える)、という点。実状はまったく異なり、言語を巡る進化生物学的議論は生成文法に限らず言語学において決して等閑視されてはいない。
 しかしとりわけ生成文法学者(より正確にはその中の主流であるChomsky派)は言語進化に関する限り、現代の進化論争上に強固な位置を占めるNeo-Darwinismを却下し反適応主義の立場を明確に打ち出しているために、自然選択を唯一絶対の説明原理とするUltra-Darwinistたちの目には、生成派は言語進化を巡る議論を拒んでいる、あるいは極端な場合には言語神授説・創造論者であるとさえ映ってしまうようなのである。この混乱ないし誤解の源が「神か自然選択か」という誤った二項対立の図式にあることは言うまでもない。
 そしてこのような誤解も含めて、生成文法の生物言語学としての立場を不透明にしている原因としてはさらに、たいへん残念ながら、その主張の内容が正確に理解されることなく、誤解や無理解に基いた正当とは言い難い批判が言語学の内外から生成理論に対してなされ続けてきたという経緯もあげておかなければならない。さしずめ「言語生得説は言語能力のすべてが特定の遺伝子によって決定されるとする考え方であり、生後の環境との相関を考慮しないものである」というのがそういった誤った通説の代表であろうが、専門の学者の中にもそういった事実誤認に基づいて生成理論批判を繰り広げるといった光景がいまだに散見されるのである。
 本稿では以上のような生成文法を取り巻く必ずしも好ましいとは言えない状況を考慮しながら、特に生物学諸分野との有益な交流の可能性を模索する目的で、生物言語学の一つの方法論としてのこの理論の経緯や現状、展望を描写したいと思う。

2. 普遍と多様−総合説進化論の中の生成文法

生物学と同様、言語学も現象レベルの多様性とその多様性をもたらす原理群の普遍性の双方に注目して、両者を統合的に理解しようとするものである。そういった統合はたいてい、単純な法則なりパターンの組み合わせや積み重ねからさまざまな現象を引き出そうとする点で多様性を普遍性に還元するものとなるが、こういった還元論的手法をいわゆる「木を見て森を見ず」的な悪い意味での要素還元主義と混同すべきではないだろう。むしろ森だけ見ていても分からないことも木を見れば分かる、と喩えるべきであるが、一見無関係に見える事象間に共通点や関係性を見出しそれを法則という形でモデル化するのが科学の本質であるとすれば、その関係性を浮かび上がらせる合理的手法として分析的アプローチはいまだに健全でありもっとも有効なのである。(再び、Synthesis by Analysis)
 例えばCharles Darwinは生物種の多様性、生物世界における可変性に注目し、それを(主に)自然選択という原理を通じて理解することを提案した。ほぼ同じ時代に、Gregor Mendelはむしろ一様性や保存性に注目し、世代を渡って形質が受け継がれるという現象を遺伝因子の存在、とりわけその粒子性に基づいて解読してみせた。
 この変化対保存、多様対一様という一見相容れない二つの現象の一方ずつに関わるはずであった研究パラダイム−Darwin進化論とMendel遺伝学−は、20世紀初頭、Mendel遺伝則の再発見に続いて起きた「現代の統合」(Modern Synthesis、総合説進化論)によって矛盾なくまとめ上げられるに到る。Darwinにとっては不明であった変異自体がもたらされるメカニズムと、Mendelにとっては不明であった遺伝粒子の実体、この二つのブラックボックスの中身を同時に解明したのが分子生物学・分子遺伝学の知見であり、象徴的にはDNAの二重螺旋の構造そのものであった。
 J. D. Watson & F. H. C. CrickのNature論文が発表されたのが1953年、それを追うようにして1957年にChomskyのSyntactic Structuresが公刊され生成文法(当時は「変形文法」の呼称がより適切であったが)がこの世に産声をあげたことは、以降の生物言語学としてのこの理論の展開を想起すれば非常に興味深い。言語における普遍と多様、保存と変化という対立命題をこの理論は、ちょうど分子生物学が生物学においてやってみせたように、見事に統合・調和させることになるからである。
 通常、生成文法が登場し牽引した時代風景としていわゆる認知革命を語るのが慣例であるが、その誕生の兆しとしてはむしろ総合説進化論や分子生物学の形成なり成熟により、生命という複雑極まりない現象の中核部に還元論的手法で切り込んでいくことができるという期待に満ちた時代精神を指摘しておくことも、あながちこじつけではないだろう [1] 。
 生成文法(に限らず理論言語学が取り上げるべき)言語の多様性は主に四つのレベルで表出する。まず第一に明らかなのは自然言語自体の多様性、つまり世界に3000〜4000ないし7000〜8000あると推定される個別言語の数であって、生物多様性(biodiversity)との対応が最も見て取りやすい。これは言語学でいうところの共時的(synchronic)な変異であり、例えば現代日本語と現代英語はどこがどう異なり、その違いは何に由来するのか、という問題に相当する。
 第二は歴史的あるいは通時的(diachronic)な変異であり、例えば現代英語と12〜16世紀頃の中期英語はなぜどのように異なるのか、あるいは時の経過とともにある言語が消滅しまた別の新しい言語が生まれるのはどのようにしてなのか、の問題であると同時に、より根源的な問題として、人間言語自体の起源と進化もここに含めることができる。通時的変化がミクロ進化に相当するのに対してこちらはマクロ進化に相当することになる。DarwinがOriginで言語と生物進化の平行性を指摘したのは言語の通時的変化においてのことであり、言語類型論と生物分岐論など、言語学・生物学の伝統的な分野間での概念や表記法の借入などの交流が古くから見られるのもこの部分である [2] 。
 第三の多様性は一個人の発達上のものであり、例えば日本語を母語とする同一個人が幼児期と成人期で、あるいは三才期と四才期で、その言語知識がどのように異なるのか、といったものである。とりわけ、誕生直後のどの言語もまだ持たない(ように見える)段階から特定の言語を母語として持つに到るまでの推移は、言語獲得(language acquisition)の問題として生成文法にとって最重要課題の一つであるのみならず、それが提唱する普遍文法(Universal Grammar)の理論や言語生得性の仮説の妥当性を巡って認知科学全体を巻き込んだ論争が繰り広げられている領域である。先の共時的・通事的変異を言語の系統発生(phylogeny, phylogenesis)と呼ぶならば、こちらは言語の個体発生(ontogeny, ontogenesis)ということになる。
 第四の言語多様性は、筆者が極微発生(microgenesis)と呼ぶものである。これは、一個人の言語知識がその人の生涯に渡って無限に近く多様な言語表現を生成できるという事実に深く関わるが、とりわけ同一の意味や同一ではないけれども密な対応関係にある意味を持ちながら記号連続としては表面的に異なる複数の表現が存在すること、さらにはその多様性は実はまったくの無制限なのではなく厳しく限定された許容範囲内でのみ表出するものであることが中心的命題になる。
 言語知識自体は有限のはずでありながら(なぜなら脳の容量には限界がある)、それが生み出す表現の数には限界がない、という人間言語の特性は時に「言語使用の創造的側面」(creative aspect of language use)、「有限手段の無限使用」(infinite use of finite means)などとと表現されるが、こういった言語の実用を根底から支援している表現生成能力、またその生成過程の解明がここでいう言語の極微発生の中核的問題であり、これがとりもなおさず言語知識=脳内文法のモデル化という生成文法が自らに課した第一課題であった。
 以上のような言語多様性を言語普遍性に結びつけて統合的に理解しようとする営みが生成文法研究の根幹をなす一つであり、その問題設定法はDarwinとMendelを対立関係から共存関係に導いた総合説進化論のそれに通じるものがあるように思われる。言語と生物の進化や遺伝という領域の違いは当然ながら、DarwinやMendelが生物世界について提起したのと同じ問題が言語世界にもあることを生成文法は(再)発見し、またそれらの統合までもを自らの手でなし遂げることになるのである。

3. 「発生」という見方

前節で述べた言語多様性の各クラスは、それを生み出す「発生」過程の分類に従って次の三つに整理し直すことができるだろう。

(1)    A   Microgenesis
             言語知識が生み出す言語表現の多様性
       B   Ontogenesis
             個人の発達過程で生じる言語知識の多様性
       C  Phylogenesis
             言語の起源、通時的変化とその結果としての言語知識の共時的多様性

この場合、発生は進化や生成にも置換可能な概念であるが、現在の生成文法の特徴の一つは、こういった動的な概念によって上の問題に整合的に取り込もうとしている点にあると思う。原因と結果、入力と出力だけを静的に検討するのではなく、両者がどのように対応づけられているのかを調べる必要があるという共通認識が急浮上してきたのである。
 一方、Chomsky自身をはじめ多くの生成文法研究者・生物言語学者が設定している主要課題は通常、次のように定式化されるので[3]、これと(1)との関係について触れておこう。

(2)    A  言語知識の本質
        B  その個体レベルにおける獲得
        C  その実用
        D  その脳内メカニズム
        E  その種レベルにおける進化

(1)は(2)から(C)の語用論的問題と(D)の脳神経言語学的問題を除いたものを「発生」をキーワードにして再定式化したものであることがお分かりいただけると思う。このうち(2C)の言語の使用の問題は、言語知識のみならず究極的には「自由意志」の問題も含めてあらゆる言語外要素が関わる行為論の領域であり、これが生成文法の射程に入るのは当分先のことであろう。
 古くは言語の能力(competence)と運用(performance)を区別し、あるいは脳内に実装された知識体系としての内在言語(internalized language, I-language)とその産出物として外界に表出する現象としての外在言語(externalized language, E-language)を区別して、過去の言語学の資料分析的手法と決別し、能力なり内在言語を対象にすることでヒトの知性の一側面、ひいてはヒトの本性(human nature)の研究に言語学を変質させたのが生成文法であった。
 もちろんこのことは、生成文法が言語運用の問題を軽んじて切り捨てたということではなく、運用が拠って立つ能力自体の解明なくして運用を巡る議論のみを弄することの空虚さに敏感であった、より基本的な問題の存在に気づきそこから議論を始めることを選択した、と理解すべきであろう。能力と運用(構造と機能と言い換えてもよい)は当然密接に相関しており、いずれを無視しても包括的な言語の記述はありえない。
 と同時に、両者の相関論はまず両者を明確に対比させそれぞれについての研究を積み重ねた結果として可能になるものであり、それらを混同・同一視することを奨励するものでは決してない。能力運用相関論は生成文法の近年の展開においてようやく視野に入りつつある。
 (2D)の脳神経学的研究も、従来の生成文法とはむしろ関係が稀薄であったと言わざるをえない。古典的な大脳機能局在論はさておいても、近年のfMRI(機能的磁気共鳴画像法)やPET(ポジトロン放射断層撮影法)を駆使した脳機能イメージングでさえ、脳がある言語活動を行っている際にどの部分が活性的であるかをかなりの精度を持たせて示すことはできたとしても、それがその活動に関わるさまざまな言語的・非言語的要因のうちのどの成分に対応しているのか、言語活動の何を映し出しているのかは言語理論とのすり合わせによって(敢えていえば言語理論と辻褄があうように)解釈するしかなく、脳科学側からの理論研究への有益なフィードバックは得にくいという状況があった。
 とりわけ生成文法は理論の先鋭化・抽象化が急速に起こる枠組みであるため、脳科学からの実証的データがその時々の理論と矛盾しないということを後追いの形で検証・裏付けしていくといった消極的な役割しか、言語の脳科学には与えられてこなかったように思う。例えばElmanらの指摘を待つまでもなく[4]、言語知識を含めて知識とは突き詰めれば脳の神経細胞のある状態・布置を指すのであるから、生成文法による文法モデルの脳神経科学側からの実体論的裏付けの必要性は言うまでもない。
 が、こういった一方向の流れを超えて、純理論研究としての生成文法と実証的脳神経科学の間に双方向的な協力関係なり共同体制が確立されなければ生物言語学としての成熟は望み薄だと言え、そしてそのような体制は現在まさに整えられつつあるところだ [5] 。
 以上のような背景もあり、本稿でも(2C, D)についてはその重要性を十分認識した上で、論点を絞るためにこれ以上触れることはしないでおこう。上記のとおり、残った(2A, B, E)が(1A-C)に包摂されるものであり、「発生」の問題として捉え直したこれらのトピックを中心にすることで、生成文法の生物言語学としての実像に迫ることができるであろう。普遍性と多様性をどのように結びつけるかという問題は、単純な構造なり形態から複雑な構造・形態がどのように発生するのかという視点から眺めるべきであって、この発生の過程を解明することで生成文法は(1A-C)に対する解答を与えようとするものであると言える。そして筆者の個人的印象を言えば、現在の生成文法はこれらの三つのレベルの発生過程の間にすらなにがしか偶然ではない共通性を見出し始めているのだと思う。
 以下、それぞれの発生の問題について順に検討しながら、生成文法の考え方をもう少し掘り下げていこう。

4. 極微発生、または言語生成の動的モデル化

我々の言語知識は多様極まりない言語表現、典型的には「文」をある一定の法則に従って原理的には無限に生成し続けるシステムとしてイメージされる。初期の生成文法はこのような特質を、言語知識を多くの個別規則の集積と見なすことでモデル化しようとしていた。特に興味深い事実として注目されたのが、多様に見えながら一定の対応関係が各言語表現間には存在するということ、またそのことが分かるということが母語話者の言語知識の一部であるということであり、これを理論として捉えることに当時の研究エネルギーの多くが注ぎ込まれていた。
 例えば能動文とそれに対応する受動文という、表面的には異なる記号列間に成立する意味的同値関係がある。

(3)   a.  John criticized Mary.
       b.  Mary was criticized by John.

これを両文は同一の抽象的な基底構造(「深層構造」)を共有し、そこから異なる経緯を辿ることで別個の表面的な構造(「表層構造」)として具現化する、と考え、またこの構造間の写像が起きる際に働く構造変換操作を提案しこれを「変形」(transformation)と呼んだのが、変形文法すなわち初期の生成文法だった。
 ここでいう言語の極微発生の問題は、まず与えられた深層構造からどのような経緯を辿って各表層構造が生じるのか、という形に集約される。なお誤解されやすい点であるが、(3a)から変形により(3b)が発生するのではなく、(3a,b)ともに同じ深層構造から異なる過程、異なる変形を経て発生する表層構造である。
 こういった、表面的には異なって見える個物を共通の原型の変形体として関係づける思考法は、生物学においてはこれより約100年前に他ならぬDarwinの「変化を伴う由来」(Descent with modification)という進化観にすでに端的に表明されていたが、そのルーツをさらに遡れば18世紀ドイツの文豪Johann Wolfgang von Goetheの植物形態学に到ることができる。
 Goetheは現実に目撃される植物の多様な形態を、普遍的な原構造、原型である「原植物」(Urpflanze)が段階を経て変態(メタモルフォーゼ)した結果であるとし、すべての植物の同一性・実体性をこの想定上の原植物に見出していた。このメタモルフォーゼこそ、変形操作という概念の「原型」なのであり、また多様性を普遍性から導出しようとする科学的営為の素朴な原風景なのかも知れない。
 1950年代の初期理論に続き、「標準理論」と呼ばれることになる1960年代の生成文法の理論構成においては、数多くの変形規則がそれが関係づけるべき出力ごとに(いわゆる構文ごとに)提案され、またそれらの変形規則は無条件に適用するのではなく、実際にあり得る出力のみを与えあり得ないものを生み出さないように制約がかけられていることになっていた。
 例えば(3b)を導出する際に適用する「受動化変形規則」は、それが適用しなかった(3a)においては目的語として表出する「Mary」を主語の位置に転位させる効果を含んでいるが、この同じ規則が同様にして(4b)を誤って生成することはないよう、制限が加えられる必要がある。

(4)   a.  Bill thinks John criticized Mary.
       b.  *Mary is thought John criticized by Bill.

(文頭の「*」はその例文が非文法的、つまり当該文法が生成不可能であるということの慣例的表記である。)(4b)が英語として不可能な表現であるということが分かる、というのも英語母語話者の知識の重要な一部でありこれを捉えられない文法モデルは検討に値しない。そこで各々の変形規則がどのような入力構造のみに適用し(「構造記述」)それをどのように変形させるのか(「構造変化」)を、それぞれの規則の定式化の中に盛り込んでおくという方略が採られたのがこの段階の理論であった。
 この制限つきの個別変形規則の集合という初期の図式が母語話者の脳内文法のモデルのありようとしていかにも不適切である、ということはその後直ちに理解されるところとなる。要するに理論として複雑すぎ一般性を欠いていたのだ。モデルの簡潔性や経済性、一般性や包括性を高めることで理論の進展を推進するのは生成文法も他のすべての科学理論も同じである。
 個別変形規則を羅列するだけのモデルからは何か重要なことが見落とされている、変形規則どうしの間の関係づけがなされていないという直感なり認識が当時の研究者の間に共有されていたと表現してもよいだろう。そこで次の段階(1970〜80年代)では、変形規則群の多様性が説明の対象となり、これを「α移動」(Move α)という単一の普遍的操作と、その適用結果としての構造ないし表示(representation)に対して課せられる一般的制約・条件に解体するという戦略が登場することになる。
 α移動はただ構造内の任意の要素を任意の位置に転位させる効果を持ち、その適用自体が制限を与えられることはないとされた。多様な形式を生む仕組みは個別変形規則のそれぞれではなく、それらすべてに共通する(いわば「原型」としての)α移動自体にあり、言語知識の実体性がこれに移行したことで個別変形規則群は姿を消す。あらゆる表現形式は同じα移動が何に対してどのように作用するのか、どのような発生過程を辿るのかに応じて多様に具現化する言語構造であることになり、これらを便宜上分類するためのラベルとして以外には、個々の表現形式自体を指す概念は意義を持たないことになる。端的に「構文は実在しない」と表現される見方である。
 このα移動に対しては適用条件が課せられてはおらずまたそのことがα移動の最大限の簡潔性と一般性を保証していたのだが、その結果不適正な構造も無限に生み出してしまうことを認めざるを得なくなった。例えば上の(4b)の発生を未然に防ぐ手だてはなく、α移動はいわゆる過剰生成(overgeneration)を無制限に許すシステムであった。そのため過剰生成物のすべてを、そしてそれらのみを後ほど排除し、結果的には適格な構造だけを出力するような仕組みが言語知識になければならず、それらはその出力構造に対する適格性条件、表示の制約としてやはり最大限の簡潔性と一般性を保証される形式で文法に組み込まれることになった。
 これは、例えば(5)の対比と(6)の対比という表面的には無関係な現象の間に共通性を見出す試みによって実践された。

(5)   a.  Mary was criticized t.
       b.  *Mary is thought that John criticized t.
       c.  *Mary is thought that t criticized Bill.

(6)   a.  Mary criticized herself.
       b.  *Mary thinks John criticized herself.
       c.  *Mary thinks herself criticized Bill.

(5)において「t」は「Mary」がα移動の適用を受けて転位した結果、元の位置に残ると想定された痕跡(trace)を表す。また(6)における「herself」は再帰代名詞と呼ばれる名詞表現のクラスに属し、これらは文中の別の名詞を先行詞として解釈されなければならない。(5)、(6)いずれも(a)は文法的であるが(b,c)は非文法的である。これらを注意深く比較してみると、ちょうど(5)において「Mary - t」の関係が適正であるのと同じ構造環境において、(6)における「Mary - herself」の関係も適正であり(5aと6a)、また「Mary - t」の関係が不適正であるのと同じ構造環境においては「Mary - herself」の関係も不適正である(5b,cと6b,c)、という相関が成り立つことに気づかされる。するとこれらを統一して説明するような文法原理があれば、α移動によって生じる関係であろうがなかろうが、文中の依存関係はすべて原則的には同じ制約に従うという形でさらに一般性の高い説明が得られることになる。  これと同じ手法によって、表出する言語表現と必要だと思われた制約の多様性が次々に関係づけられて普遍化していったのがこの時代(1970〜80年代)であった。この見方では、言語知識として実在しているのはこのような効果を持った抽象的原理であって、α移動の適用のみを個別に制限するものもα移動の出力構造のみを制限するものも不要となる。このような理由にyり、表示に対する制約を装備した理論(表示のシステム)が移動規則の制約を装備した理論(規則のシステム)よりも優れている、と当時は理解されたのである。
 ここで留意しておきたいのは、このようなモデルにおいては、1)言語は無限の過剰生成をいったんは許すという余剰性を備えた系であり、2)それら余剰なものを後ほど除去するような選択・淘汰の系である、ということになる点である。もちろん扱う現象領域はまったく異なるが、その論理構成において当時の生成文法は驚くほどNeo-Darwinismのそれに近似的であったことが分かる。これは後述するように生成文法が言語学側からの反Neo-Darwinismの旗手としての位置を占めていることを考えれば、まさに意外とも思えることなのである。
 そして言語が上記のような余剰性を内包しているということ自体も、言語を他の生物学的システムと同じものとして眺めることを要請する大きな要因となっていた。DNAのイントロン領域や免疫応答系における膨大な抗体分子形成に象徴されるように、生物系は常に大量の無駄を許し、かつスプライシングや抗原抗体反応に見るように、そうやって内部に蓄えた余剰の中から何を選び出し、何を切り捨てるのかの問題が生命活動の中核に常にある。
 このような生物系のあり方によく似て、言語も常に大量の余剰物を発生させ続ける生成系であり、全体としてはその余剰性を保持しつづけながら個々の言語活動はその膨大なレパートリーから適切なものを選択するという作業によって賄われている。こういったことを指摘することで、生成文法は「言語=生命」というありふれたアナロジーに深い意味づけを行っていたようにさえ筆者には思える。
 この後、1990年頃を境目にして生成文法はミニマリスト・プログラムという新しい研究プログラムに移行することになるが、ここで状況は一変してしまう。理論の一層の簡潔化・一般化を目指している点はそれまでと変わりないが、それのみならずその理論が捉える言語の実体自体が一切の余剰性や無駄を許さない最適設計(optimal design)をなしているという予測なり期待値を一種のヒューリスティクスにして、従来の理論の全面的改訂を断行したのだ。
 この断行は最初、いわゆる「仮想上の概念的必然性」(virtual conceptual necessity)を欠くもの、つまりモデルを組み上げるに当たってその存在が内部の事情によってのみ要請され確固たる必然性の根拠が不在であるような理論装置をすべて破棄することから開始された。例えば長きに渡って重要な役割を果たした深層構造・表層構造も、その他多くの理論構築物とともに速やかに姿を消すことになる。
 この深層構造・表層構造の破棄は、構造なり表示という静的で安定した配列を基本に据えるのではなく、その構造自体はどのようにして発生可能なのか、その過程(表示に対して「派生」(derivation)」のダイナミズムにこそ注視しなければならないという新しい視点を象徴するものであり、生成文法の(広義の)構造主義からの脱却を意味するものでもあった。言語表現の多様性を普遍性によって読み解こうとする点は同じだが、その普遍性はすでに出来上がった基底的構造を超えて、いかなる構造の生成にも参画する人間言語の構造構築能力にこそ求められるものとなった。
 すべての言語表現、言語構造の背景にはそれを発生させる普遍的な力の作用があり、それは具体的には構造を構成することになる各成分の間に関係性を見出し、一つずつ組み合わせていく手続きの積み重ねである。適用すべき表示を失った制約の機能は、この構造構築の進行方式に対する制約として振り替えられることになる。ある意味では表示のシステムから規則のシステムへの揺り戻しが起きたことになるが、かつての個別変形規則群とそれに対する適用条件群ではなく、極限まで抽象化を行った統語的計算能力と、その本質的特性としての経済性原理という形でそれはモデル化される。
 ここでいう経済性原理には、構造構築の過程(派生)に無駄な操作の適用や必要以上のコストが要求されるような適用様式はすべて排除されるとする派生の経済性と、この派生によって発生した構造内には、それが意味と音声を繋ぐ媒介として機能する上で必要かつ十分な情報を担う成分以外は含まれていてはならないとする表示の経済性の二つがある。
 見方を変えれば、意味と音声を対応づけるに必要最低限な構造を最もコストの低い方法で作り上げる仕組みが人間の言語機能にあるということになる。組み合わせ論的最適化(combinatorial optimization)問題を計算量の爆発を起こすことなく解くような仕組みだと言い換えてもよい。  かつての構造間の写像のモデルでは、規則の適用からは実効時間が捨象され、瞬時的な写像がイメージされていたのだが、この新しい派生モデルは、時間的・空間的計算量を視野に入れた動的モデルである。瞬時的・静的な見方は効率的な研究を推進するための一種の理想化あるいはブラックボックス化であり、それにより得ることのできた知見を頼りに今やその内実に踏み込もうとする理論の深化を象徴するものである。
 と同時に、個別的な規則適用条件群から表示の制約を経て経済性という抽象的原理に帰着したことは、生成文法が掲げている、言語を含めて人間の高次認知機能は自然世界にあって特別なものなのではなく、他のあらゆる現象・事象と同じようなアプローチによって研究すべきものとする「方法論的自然主義」(Methodological Naturalism)にとっても歓迎すべき出来事であった。
 最小作用、最小労力は自然物のふるまいを普遍的に特徴づけるものであり、言語構造の構築も究極的には脳内で起きる自然現象的出来事と対応している以上、ここでいう言語の経済性が実は言語のみに成り立つ特性ではなく、自然世界全体に作用しているより高次の普遍原理から導かれるべきものであることを示唆しているからである。
 科学理論も分化と統合の過程を繰り返すものであると先に述べた。生成文法は言語学という領域、それも言語全体からみればむしろ偏狭とも言えるほどに厳しく守備範囲を絞り込んだ領域の中で同じ過程を繰り返しながら、実は既存の言語学の壁を打破して言語学を他の中核的自然諸科学と結びつけ、科学の統合を企てるものでもあると言えるだろう。
 一方でこの経済性や言語の最適設計性は、新たな概念的問題を噴出させることにもなる。第一に、経済性という考え方は文字通りにはある目的、到達すべき事態があらかじめ設定されている場合に成立するものであるから、これに依拠した説明は目的論(teleology)への逆行になりかねないという危惧である。
 人間が言語能力を用いて意図的に物事を行う場合と異なり、言語能力自体は無意識の作用である。中でも統語派生は解釈に対して先見性を持たない無目的的・盲目的プロセスであると考えられ、この自律システムの振る舞いを目的論的に述べることは明らかに適切さを欠くことになる。喩えればタンパク質の三次立体構造が熱力学的平衡状態として記述できるにせよ、その状態をあらかじめ分子が予期しそれを目指して自分の取るべき布置を決めているということがあり得ないのと同様、言語構造の「フォールディング」もある状態を目指して起きる目的指向的なプロセスではない。
 言語の経済性原理もそれに先行して提案されまたそれによって包摂されることになった諸原理と同じく、説明されるべき特性なのであってそれ自体が説明原理ではないと考えなければならない。
 さらに大きな問題は、余剰性の満ち溢れた生物世界にあって人間の言語システムだけがどうして無駄のない完璧な設計を達成し得たのか、という謎である。下でも述べるように、だからこそ人間言語は漸進適応進化の産物ではあり得ない、という論法によって言語をNeo-Darwinismへの反証としてあげることがあるが、これは果たして健全な議論だろうか。もちろん創造説とは無縁であるが、別の意味での Argument from Design に陥ってしまう危険性はないのか。そもそも言語システムの内実が実体論として最適設計をなしていると言えるほど、我々は例えば免疫学者が免疫機構の仕組みを解明したと同じ程度に言語の仕組みを理解しているのだろうか。ひょっとしてモデルとしての経済性・簡潔性・最適性にすぎないものをモデル化の対象自体のそれと取り違えているに過ぎないということはないのだろうか [6] 。
 自戒の意味も込めてこれらの疑問は表明しておきたいし、さらに言えば、生物界にあって人間言語だけがこのような特異な特性を持つと安易に断じてしまうことは、上記「方法論的自然主義」の履行にとって妨げにさえなりかねないと思う。言語だけが経済的なのではなく、言語にも他のどのシステムにも経済的な部分と余剰的な部分があり、両者は二者択一なのではなく相補的な関係、あるいは同じ一つのものの異なる側面という関係にあるのではないだろうか。
 以上、本節では個々の言語表現の発生を巡って生成文法が辿ってきた理論展開を概観しながら、そこに横たわっている余剰性と経済性の問題に触れた。理論が余剰な系とそこに働く選択機構という静的な表示システムから、最も経済的に構造構築を実行する最適な計算系という動的な派生システムへと移行する中で浮上してきた上述の論点は、次に見る言語の個体発生を巡る議論、さらに系統発生のそれへと受け継がれることになる。

5. 個体発生、または普遍文法から個別文法へ

「初期に経験する言語刺激には質的ばらつきがあるにも関わらず、それに基づいてすべての人間が、そして人間だけが正しい母語を獲得できるのはなぜなのか」−言語獲得の論理的問題(logical problem of language acquisition)と呼ばれるこの問題に対する唯一の合理的な(理性に適った)仮説として生成文法が提出したのが言語の生得性であり、普遍文法(UG)の理論であった。
 個々の経験を遥かに凌駕する豊かな言語知識を無意識のうちに脳内に発生させてしまう幼児の能力が、説明を要する驚嘆すべき対象であるということを指摘しただけでも、Chomskyの認知科学全体の進展に対する貢献は最大限に評価されなければならないが、それに対する解答として彼が示した普遍文法の構想は、賛否両論いまだに激しい論争が繰り広げられている一大仮説でありそのインパクトは絶大である。またその他方で、「言語は生まれつき備わっている本能である」「言語能力は遺伝する」といったセンセーショナルな表現に惑わされ、本質からそれたところで無益な議論が続けられているのも事実である。
 本節では各個別言語の文法の原型としての普遍文法がどのような性質を備え、またそこからどのようにして個別文法が発生するのか、を中心にして個体発生のレベルにおける言語の多様と普遍、余剰と簡潔の問題に考察を加える。
 普遍文法はヒト種固有の生物学的、遺伝的資質・能力の一つとして想定されるもので、言語能力の基本設計を規定し制限する認知基盤に相当する。人間言語がヒトに備わった生物学的能力であり、そこに遺伝情報が関与していること自体は、なによりも言語がヒトに固有のものであることや、幼児の言語獲得のあり様、遺伝性言語疾患の症例などから否定のしようがない。にも関わらず普遍文法という考え方が大きな論争の的になってきたのは、そこに領域固有性、つまり言語独自の特性が存在しそれを含めて生得性の主張がなされているからである。
 懐疑派からは例えば言語に固有の生得的能力をあらかじめ用意しておかなくても、他の生得的汎用認知能力と環境の相関の中から言語は立ち上がってくるのではないか、といった声が聞かれる。これに対し擁護派は、そういった印象論は生成文法が明らかにしてきた言語の構造的特質を直視せずに吐かれた空論であるとしてこれを承認しない。言語は一枚岩ではなく、さまざまな異なる働きをする下位部門の集合であって、それらのうちのどの部門のどの部分が言語生得説にとって重要であるのか、に同意しないまま互いの議論を空転させているという状況さえある。普遍文法は確立されたtruismでは決してないから、その妥当性を議論し続けるべきなのは当然としても、それが有意義なものとなるような体制がまだ整っていないのは残念なことだと言わざるをえない。
 言語生得説は、言語知識は生後の言語経験のみを通じて獲得されるものだと考える経験主義や行動主義心理学に徹底的に対峙するものであるが、それは決して経験の重要性を軽視するものではない。この問題を「遺伝か環境か」(氏か育ちか、nature or nurture)という二項対立の図式に歪曲して捉えることが誤っているのであり、生得説の立場は最初から明らかに遺伝・環境相関論である。刺激や環境からの入力を最大限に有効利用して、わずかのデータに基づきながら必ず正しい理論(=母語文法)の発見にいたるような、いわば科学が仮説を構築するのと同じ仕組みをヒトとしての本性に求めようというのが言語生得説であり、普遍文法理論である。
 言語の個体発生の場において、生じる多様性は各個人の脳内文法(言語器官 language organ とも呼ぶ)として具現化するものであり、またその多様性に共通する普遍性は、脳内文法ないし言語器官の初期状態としての普遍文法に帰せられる。普遍文法が異なる言語刺激との相関を通して各個別文法として具体化する、ないしはそのような言語刺激を個別文法に対応させる写像関数としての役割が普遍文法に与えられることになる。
 このような普遍文法をヒトに固有の言語獲得装置(Language Acquisition Device,LAD)ないし文法発生装置と見る言語獲得の図式こそ生成文法の初期から確立されていたものの、この役割に見合った普遍文法のモデルとして慎重な検討に値する提案がなされたのは1980年前後になってのことであり、それは「原理とパラメータ」(Principles and Parameters、P&P)のモデルとして知られるものである。
 P&Pモデルによれば、普遍文法は少数の一般原理とその一般原理の実際の適用様式について微調整を施すような可変部分である媒介変数から構成される。原理自体は普遍的でありながら、それをわずかに変化させて組み合わせることで、多数のバリエーションを発生させる仕組みであり、幼児にとっての初期言語資料はこの微調整の方法を決定するに足る程度のものでよいことになる。
 ある言語を母語として獲得するということは、この微調整をその言語に合わせて施すことに他ならず、言語獲得=パラメータ値設定という定式化が得られる。幼児にとっては世界のどの言語であってもその環境に置かれることで容易に獲得することが可能であるが、その際に幼児の脳内で起きていることは入力されるデータに基づいてパラメータ値を設定し、普遍文法の一般原理をその言語に合わせた適用様式で実働させ始めることである。
 このような初期条件の微弱な変動に依存して、多様な出力が生み出されるのはカオス系の特色であり、言語が複雑適応系の一つであるということを(時代背景としてそういう表現こそされてはいなかったが)生成文法は早くから指摘していたことになるだろう。
 またこのことは、普遍文法理論が単純な遺伝子還元論とは無縁のものであることをはっきり物語っている。原理や媒介変数が遺伝的情報を元に立ち上がってくる知識のシステムであるから遺伝子の役割ももちろん重要であるが、タンパク質レベルまでの情報に過ぎないものが結果的にどのようにして脳内にある特定の知識を発生させることに関わってくるのか、そのプロセスを動的に把握することにこそ普遍文法理論の今後の展開が向けられなければならない。ある段階までは説明装置であった普遍文法は、生成文法の現場ではすでに被説明項に転化している。
 このような流れを前節で見た極微発生(言語表現の生成)の扱いを巡る理論展開と比較してみると、面白い平行性があることに気づく。当初の深層構造から表層構造への写像によって多様性を保証する静的なモデルから構造自体が定立するプロセスに注視する動的なモデルへの移行が起きたのと同じようにして、普遍文法と各個別文法を対応づける中で浮上してきたのはパラメタ値設定という動的な過程であった。
 現在のミニマリスト・プログラムにおいては構造と同様パラメータもその役割を最小に抑えられ、代わって台頭してきたのが形態発生におけるAlan Turingの反応拡散(reaction-diffusion)系モデルや生物進化におけるStuart Kauffmanの自己組織化(self-organization)理論などに代表される、自発的な構造形成やパターン発生に注目するアプローチである。操作の適用もそうなのだが、外部から作用する力に頼るのではなく、そのシステムの内に、一定の構造を生み出すような力が働いておりその結果としての言語構造でありまた個別文法だということになるだろう。これは当然、言語進化についても同様である。
 言語獲得と選択の関係についても触れておこう。上で言語表現の過剰生成を許す言語理論の余剰性を見たが、これと平行的にパラメータ値設定による言語獲得のモデルも余剰に満ちたものとならざるを得ない[7]。この見方では普遍文法にはどの個別言語の文法にも対応可能な選択肢があらかじめ潤沢に用意されており、その中から必要なもののみを選び出す、もしくは必要でないものを除去する(活性化しない)、という手続きがそこに加わることで各個別文法が具体化することになる。日本語を獲得するということは、普遍文法の豊富なオプションのうち日本語に必要のない選択肢を刈り取ることを意味している。
 獲得や習得の概念が、新しいものを外部から取り込むことを意味するとするならば、母語知識の発生はこれらには該当せず、逆に内部にすでに獲得していたものを捨てる('unlearning')ことで成立する現象である。個別文法から結果論的に言えば、普遍文法は余剰的なものをすべて含めて保持しており、そのような無駄に支えられてこそ経験や刺激の最大効率化が可能であることになる。
 パラメータ設定による言語獲得モデルが普遍文法の余剰性を前提にしているのと対照的に、ミニマリスト・プログラムが関心を寄せる自発的モデルはあらかじめ用意しなければならない選択肢をどこまで少なくできるかという問いかけに答えるもの、象徴的には遺伝・環境相関論の中で遺伝が直接関わっていた領域を最小化することで、相関論的・動的モデルをより発展させていく狙いをも持つものだと理解できるだろう[8]。

6. 系統発生、または自律進化のモデルへ

すでに触れたように、Chomskyをはじめ生成学派の多くは言語の起源と進化の問題についてはNeo-Darwinismの自然選択万能説を却下する姿勢を貫いており、この部分が多くの生物学者にとって生成文法を分かりにくいものにしている主な要因であると思われる。(生成文法内部にもNeo-Darwinismの信奉者は少なくないのだが。)
 自然選択説に対する生成側からの異議申し立ての根拠は多岐に渡るが、第一に選択はすでに存在しているものにしか作用せず、その選択されるべきものがどうやって生じたのかを述べずして進化を説明したことにはならないという点である。自然選択の関与を否定しているのでは決してなく、それだけでは説明として不十分であると指摘するスタンスは、例えば経験主義を経験論だけでは言語獲得は説明できないとして却下したのと同質のものである。
 Darwin自身、自然選択を進化の「一つの主要な要因」としか述べておらず、むしろ生成文法の精神としては、Neo-Darwinismによって歪められてしまったDarwinの思想を元通りにしようというものだと見なすこともできるだろう。実際、自然選択だけでは、進化という壮大な物語のうちのエピローグ部分を語ったことにしかならないのである。
 自然選択説への疑義の第二は生成文法が言語の本質を適応的ではなく、むしろ反機能的なものと考えることから生じる。もちろん言語能力が全体として、それを持つ者の生存や繁殖を有利にすることは想像に難くない。しかし生成文法が主たる関心を寄せている言語の中核領域、言語構造の構築過程とそこに課せられる制約についてはどうだろうか。単純な考察として、例えば上出の例文(5a-c)をもう一度見てみよう(ここに再掲する)。

(5)  a.  Mary was criticized t.
       b.  *Mary is thought that John criticized t.
       c.  *Mary is thought that t criticized Bill.

機能論的に見れば、(5a)の受動文は対応する能動文 (John criticized Mary.) に比べて、Maryに話し手の視点を合わせて事態を述べることができる、誰がMaryを批判したのかという情報を背景化することで、無関係な事項に触れることなく必要な情報だけを効率的に伝えることができる、などのメリットを持つことが容易に想像できる。
 このような考察はこの表現方法の個々の使用にあたっての動機なり目的を的確に表してはいるかも知れないが、この表現形式がそもそも成立すること、文法がこの構造を生成可能であるとして認可することの説明にはなり得ないことに注意しなければならない。これを混同するのが極端な目的論的機能主義であって、進化生物学では「キリンの首はなぜ長い」「鳥にはなぜ翼があるのか」といった問答に象徴されてきたものである。
 さて(5a)が今述べたような機能的メリットを持つとしてこれが適応的なものであったとしよう。同じ理由で、どうして(5b,c)も生成可能にならないのであろうか。これらが可能な表現形式であれば、やはり対応する能動文とは異なる機能的メリットを持つことができそれが適応的になることもあったはずであるにも関わらず、これらはそういった事情とは関係なく構造としてあり得ないのである。逆に言えば(5b,c)を不可能な構造として排除する言語知識は一体どのような意味で適応的だと考えればよいのであろうか。あるいは(5b,c)を許す文法を持つ者と許さない文法を持つ者とで、後者が前者より生存や繁殖に有利であると保証できるであろうか。
 同様にして、普遍文法の一般原理は論理的には無数にあり得る他の構造をすべて未然に排除しており、残った僅かの許容範囲内だけで我々に創造的自由をもたらすものであると考えると、それら排除された無数の構造はもし排除されなければ言語が適応的にならないと断定できるようなものなのであろうか。
 (5b,c)が不可能な表現であるのは、専ら言語構造を定義する部門内部の制約によるのであってそれを適応論的に説明しようとすることは誤りである。自然選択説から言えることは、そのような制約があっても致命的ではないのでそのまま残っているという程度のことに過ぎない。
 また上で見たように、言語の設計が最適性を実現しているという生成文法の見方も、言語の自然選択による進化を否定する要因となる。通常、漸進適応進化は完全なものを造り出さず、むしろ不完全さこそが進化の証しになるからである。さらには、「連続性のパラドックス」として知られる問題がある。中間種不在の問題と共通する性質のものだが、人間言語が某かの動物言語から漸進的に進化してきたと想定するのが困難なほど、人間言語と動物言語の間は不連続であるという観察である。
 言語能力のある領域が適応的でなく、また連続的な進化も考えにくいとすると、代案として一種の跳躍進化の可能性を探るのも自然な成り行きと思われるかも知れない。実際、生成文法から見た言語進化のあり様はStephen J. Gouldらの「断続平衡進化説」(Punctuated Equilibrium)と親和性を持つものと従来考えられている。また、言語全体としての適応性と言語を構成する一部分の適応性は明確に区別されるべきものであり後者は適応的とは言えないとする点においては、「分子進化の中立説」を唱えた木村資生の視点ともどこかしら通じるものがあるだろうし、さらに近年では上でも触れた自己組織化など、与えられた物理的制約の下で自律的に構造が立ち上がる過程にも注目が集まるようになってきている。
 言語進化論は決定的な証拠を見つけることは不可能であるという理由で、言語学内部では過去において一時タブー視されるような状況さえあったわけだが、比較認知脳科学をはじめとする近接諸分野からの知見を結集することで人間言語の原型(原言語、protolanguage)の姿がどのようなものであったか、そしてそこに何が加わることで人間言語が成立するに到ったか、その実像を巡って学際的な議論が盛り上がりつつあるというのが現状である。
 生成文法では人間言語をその他から大きく隔てているものは統語部門の存在であると考え、この構造構築能力がおそらくは他高等霊長類にすでに見られた概念的能力と結合することで人間言語は比較的短期間の間に成立したという見方が有力である。統語的能力は大脳新皮質の多層化、コラム重複化によってヒトの脳に新たに発生した能力と思われるが、この統語能力と密接に関わっているのが「作業メモリ」(working memory)と呼ばれる短期記憶である。
 言語構造を組み上げるには、そこに要求される各成分を作業メモリ内に呼び出して部分的に組み上げたものを一時保存し、後ほどそれをさらに別の部分部品と組み合わせる、といった複雑で階層的な手続きが要請される。この階層的な作業メモリの進化が統語的能力を発達させ人間言語の進化を促したとすれば[9]、脳のこの機能を担う部分に焦点を当てることで先に述べた理論研究として生成文法と実証研究としての脳神経科学の双方向の連携が、言語の各レベルにおける発生の研究において実現するのではないだろうか。筆者自身は、これまで生成文法が提起してきた統語的制約の問題はつまるところこの作業メモリの働き方の問題に集約されるのではないかと想像する。
 またこういった視点から言語を見直してみることは、単に統語能力や言語の問題にとどまらず、ヒトの知性のありかた、人間の本質にまで踏み込んだ議論に発展する可能性もあると思われる。ついでながら、このような脳の進化も生物進化における余剰性の増大がもたらすものであるということにも留意しておいてよいだろう。
 以上は言語のマクロ進化に関わる考察である。対してミクロ進化というべき、言語の歴史的変化、通時的変異の問題は従来の生成文法においてはパラメータ値の変動の現象として理解されてきた。同様に前節では触れなかった個人の発達上の変化もパラメータ値の変動である。すると、問題の言語多様性の共時的、通時的、発達的の別を問わず、人間言語は普遍文法がいったん成立した後は厳しく限定された範囲内でパラメータ値の微弱な変動に従って表向き異なる表情を見せるに過ぎない、非常に均質でタイトなシステムだという姿が浮かび上がってくる。
 「言語は進化しない」という表現は(これも誤解を招きやすい言い方であるが)このような言語のあり方を的確にとらえるものであろう。

7. 結語

本稿では、言語への生物学的アプローチとしての生成文法の展開の経緯を、言語の「発生」に関わる問題を中心にして簡単に素描してきた。言語能力は我々の抽象的思考を支え、科学をはじめあらゆる知的営みを推進する原動力でもある。もとより、この言語という複雑極まりない系の全貌を解明しヒトの本性に迫っていくにはどの一つの学問、理論もそれだけで完結するということはなく、生成文法もそのささやかな守備領域の立場からこの人間生物学の学際的な企てに参画しているに過ぎない。本稿を読まれて興味を持たれ、この企てに賛同される方が一人でもおられたとしたら、それは筆者にとって望外の喜びである。

[註・参考文献]

1. Modern SynthesisとNeo-Darwinismは通常、同義語として用いられるようであるが、ここでは異なる意味合いを持たせている。すなわち、前者は一見相反する理論なり研究パラダイムを統合してより一般性の高い包括的理論の構築を目指すという科学の進展のあり様の実例であり、後者はその統合を自然選択という万能原理によって成し遂げようとした試みである。従って筆者のように前者に対して好意的であり、かつ後者に対して批判的であっても自己矛盾はないと考えている。
2. 例えば Hoenigswald, H. M., and Wiener, L. F., Eds., Biological metaphor and cladistic classification: An interdisciplinary perspective, University of Pennsylvania Press, Philadelphia, 1987. 所収の各論文を参照のこと。
3. Chomsky, N., Knowledge of language: Its nature, origin, and use. Praeger, New York, 1986., Jenkins, L., Biolinguistics: Exploring the biology of language, Cambridge University Press, Cambridge, 2000. など。
4. Elman, J. L, et al. Rethinking innateness: A Connectionist perspective on development, MIT Press, Cambridge, Mass., 1996.
5. その現状については、酒井邦嘉. 言語の脳科学. 中公新書 2002. などに紹介されている。
6. Li(1997) において「生物学的余剰性」と「認識的余剰性」(bioredundancyとcognoredundancy)の混同として指摘された点である。Li, Y. An optimized Universal Grammar and biological redundancies. Linguistic Inquiry 28, 170-178 (1997).
7. Piattelli-Palmarini, M. Evolution, selection and cognition: from ‘learning’ to parameter setting in biology and in the study of language, Cognition 31, 1989. Reprinted in C. P. Otero ed. 1994. Noam Chomsky: Critical assessments, IV. Routledge, New York, 98-142. 1994.
8. Lorenzo, Guillermo, and Victor M. Longa. Minimizing the genes for grammar: The minimalist program as a biological framework for the study of language, Lingua 113, 643-657 (2002).
9. 澤口俊之・澤口京子. 脳の進化-大脳新皮質の“コラム重複説”を中心にして. 松沢哲郎・長谷川寿一 編, 心の進化: 人間性の起源をもとめて. 岩波書店, 58-66, 2000.


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